掲載日 : [2010-05-26] 照会数 : 9021
フラッシュ同胞企業人<49>職人魂で地域の名店に
[ 1962年東京生まれ。日本調理師専門学校卒。フランス、ベルギーで菓子作り修業。1男1女。 ]
下町の洋菓子店「パティスリーパーク」
シェフパティシエの朴哲秀さん
下町には珍しい赤い日よけがちょっとおしゃれな洋菓子店だ。店名「パティスリーパーク」の「パティスリー」とはフランス語でお菓子屋さん、または洋菓子店。そこに自らの名前をかぶせたところにさりげない自己主張が感じられる。
生菓子だけでも138種類あり、このなかから季節に合わせた45種類ほどを常時、ショーケースに並べている。果物を使った生クリームケーキはさしずめ宝石を散りばめたかのよう。このほか、焼き菓子、クロワッサンなどのパン、チョコレート、アイスクリームも。スイーツ系はほとんどが1ピースあたり手頃な400円以内。09年度売上額は約5000万円。
欧州で2年修業
オーナーは在日2世。フランスとベルギーで2年間修業を重ね、菓子職人のなかでもひときわ技術に秀でた者だけに許される「シェフ・パティシエ」を名乗る。
百貨店から出店要請を受けることも珍しくない。売上増加を考えたこともあるが、「下町のお菓子屋さん」が持ち味だけに、一時的な集客よりは、地元客を大事に堅実に生き残る商売を心がけている。
商品は「自分が食べてこれだというものだけを出す」。季節限定のケーキや新作ケーキも随時登場する。熱心なファンからは、「全メニュー制覇が夢」という声も聞く。都心の六本木からわざわざ足を運ぶ客もいるというから、味は確かといえよう。
小学校高学年のときから、オーブンでクッキーやシュークリームを焼いていた。母親によれば、「年がら年中失敗ばかりしていた」。高校生になると、進学を前に両親は家庭教師をつけようとしたが、きっぱり断った。専門学校に進み、菓子職人をめざすことを、すでに心に決めていた。
専門学校を終え、20歳からは職人として本格的な修業を重ねた。菓子職人は休みも給与も少ないが、耐えてきた。フランス留学したときは、「すべての環境が違う。カルチャーショックを受けた」が、仕事だけに集中した。
心の支え「族譜」
大手メーカーの委託を受けてコンピューター部品の製造を手がけてきた父親の亀鎬さん(87)は、「こういう商売は遠い世界」と、起業にあたって一切資金を援助しなかった。それだけに、「やればやれるじゃないか」と認められたとき、朴さんは初めて辛かった修業時代が報われたような気がした。
朴さんのもとには、韓国からも菓子職人が勉強させてほしいと訪ねて来る。可能な限り受け入れた。「自分のルーツの国に対して、なにも貢献できていないから」と、言葉少なに語る。
原点は、幼少時に父親から見せてもらった族譜の存在だ。高校生になると自らの判断で通称名を抹消し、本名に変えた。族譜の存在は年を重ねるごとに、自らの精神的な拠り所として大きくなりつつある。
韓国の友人から洋菓子の本を出版しようと企画の相談を受けたときは、2つ返事で承諾。その日の仕事を終えて最終便で韓国に飛び、夜通しレシピを指導して翌朝に帰日するという過酷な日程だったが、「なんなくこなすことができた」。将来の夢は、60歳で引退して韓国語を学ぶこと。
◆パティスリーパーク=川崎市高津区溝ノ口4‐6‐15(℡044・813・6485)
(2010.5.26 民団新聞)