掲載日 : [2010-06-23] 照会数 : 7058
焦土化から60年 韓国経済の軌跡
[ 1970年7月7日、ソウルと釜山を結ぶ京釜高速道路が開通。「漢江の奇跡」と呼ばれた韓国経済発展の大動脈となった
] [ 「次世代発電所」と称される核融合炉(大田の大徳研究団地) ]
ひたむきに前進した「偉大なる民」
3年1カ月余の激戦を経て休戦となった韓国戦争は、植民地のくびきから解き放たれて5年、政府樹立から2年にも満たない時点で韓国を襲った最大の国難であった。しかし韓国は、第2次世界大戦後に独立した140カ国近くのなかで、唯一成功した国と称賛されるほどの躍進を果たす。多くの財が灰燼に帰してもなお興る気力、出鼻を徹底的に叩かれても挫けることのない精神を持つ、偉大な民であることを示した。(敬称略)
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「報復」より国づくり
剣を鋤に代えて
北欧の小さいが豊かな国、デンマークの話から始めたい。この国は1864年、強国のドイツ、オーストリアに迫られて開戦に至り、敗戦によって国土南部の最良の部分を失った。荒漠とした土地を残された人々は、困窮の極みに達した。そこに、1人の工兵士官が現れ、灌漑・植林をして試行錯誤の末に荒野を沃野に変え、人々にも国を蘇生する心を植えていった。
これは『デンマルク国の話』(内村鑑三著。1894年の講演を1897年に活字化したもの。岩波文庫の第1冊は1946年、2007年に第83冊発行)として、読み継がれてきた。著者が最も強調したかったのはこの一節であろう。
「彼(工兵士官)は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬をもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました」。
敬虔なキリスト教徒らしい表現だが、こうした考えは宗派にとらわれない。同族相残戦争後の韓国国民はまさに、その思いを体現した人々だと言っていい。もちろん紆余曲折はあった。
大統領・李承晩は休戦協定の締結に反対し、北進統一を唱えた。休戦後も勝共統一が叫ばれ続けた。しかし、勝共統一論は戦後数年を経て防衛的なスローガンとなり、やがて表舞台から消えた。韓国は対北政策から攻撃的な性格を後退させ、北韓による対南浸透・撹乱・破壊工作を封じる治安対策に重点を移した。
「報復よりは経済建設を!」である。デンマークの工兵士官に劣らない人々が各分野で、有名・無名にかかわらず大量に輩出されていった。政府と国民が一体になっての国づくりに入った。
外国援助に頼る最貧国
韓国銀行が1人当たりGNP(国民総生産)を初めて算出したのは、休戦協定を締結した53年。67㌦と記録されており、韓国はまぎれもなく世界の最貧国であった(韓国のGDP《国内総生産》統計は1970年から)。
50年代は外国の援助物資で延命した。輸出品はスルメ、寒天、ノリなど食料品が大部分で、タングステン、黒鉛など鉱山物資がそれに続いた。
だが、大規模な設備投資も始まった。55年の忠州肥料工場の起工は、韓国経済にとって画期となった。国内資本2億7500万ウォン、借款3333万8000㌦が投入された、韓国初の現代式化学肥料工場である。
前年の5・16軍事革命によって執権した朴正熙(当時、国家再建最高会議議長)が、経済発展5カ年計画を発表したのは1962年1月。忠州肥料工場は同計画の核心である石油化学工業建設の推進力となった。
「漢江の奇跡」はこの5カ年計画から始まった。その年の2月、輸出・工業立国という大胆な旗印のもとに、蔚山工業センターが造成され、68年までに石油化学関連の13工場が建設された。
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「漢江の奇跡」に一助
在日同胞も参与
北韓軍の奇襲南侵によって、風前の灯となった祖国の命運を前に、在日青年学徒たちは敢然と立ち上がり、642人が義勇軍として参戦した。135人が戦死し、265人が家族や生活基盤のある日本への帰還の道を閉ざされた。
在日同胞もこの体験によって、戦争のむごさ、しかも、憎悪が極限化する同族戦争の凄惨さは身にしみている。加えて、「祖国が発展してこそ、浮かぶ瀬がある」という意識が特に強かっただけに、経済建設に参与したいとの意欲がみなぎっていた。
65年、マラソン交渉の末に韓日協定が締結され、国交が正常化された。「祖国へ! 経済建設へ!」。在日同胞の心は一挙に固まる。この間、外貨送金・食糧支援など、母国の窮状を打開する運動を組織的に展開してきた民団は、経済建設への参与を全面的に支援した。
その第1弾が、67年に設立された韓国初の輸出産業工業団地・九老工団である。ここに、電気・電子、化学・肥料、繊維、金属など多くの在日同胞企業が進出した。これらは当時の韓国にはない、高度の技術と最新の設備を備えた最先端企業ばかりだった。
ノウハウの蓄積に貢献
九老工団は80年代半ばまで、韓国の輸出総額の10%を占めた。まさしく「漢江の奇跡」の先兵だった。三星経済研究所は九老工団についての報告で、在日同胞企業を誘致し輸出拠点として出発した韓国初の工業団地であり、先進技術や海外市場進出に関するノウハウの蓄積に大きく貢献したと記している。
66年からは在日同胞母国夏季学校が始まり、2世・3世の高校・大学生が毎年500人規模で祖国を訪れた。夢に見た祖国の土を踏んだ感激と、その祖国のあまりの貧しさに泣かない参加者はいなかった。経済建設への参与意識は、1世にとどまらず2・3世へと伝わった。
これは後に、71年に開始されたセマウル運動支援と対になった祖国緑化運動につながっていく。セマウル運動は「ハミョンテンダ(やればできる)」という希望を国民に植え付け、経済成長への精神的資産になった。また、本国国民と在日同胞が民衆レベルで結束し、豊かな国づくりに邁進した貴重な経験ともなった。
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看護婦や鉱夫が先陣
外貨求め海外へ
「トラとライオンが戦えば、飢えている方が勝つ」。韓国人は飢えから脱出するために、それこそ命をも惜しまなかった。
63年、西ドイツに派遣する鉱夫を500人募集したところ、4万6000人が応募した。かなりの応募者が大学卒業か中退だった。韓国の当時の人口は2400万人、失業者は公式発表だけでも250万人を超えていた。彼らは地下1000〜3000㍍の採掘現場の石炭粉のなかで、喜々として働いた。
3年の雇用期間を終え、派独鉱夫の第1陣142人が帰国したのは66年12月。ほとんど全員が骨折傷の病歴を抱え、死亡者、失明者もいた。同時期に西ドイツに派遣された看護婦(当時の呼称)たちの労苦も、彼らと変わることはなかった。
66〜76年の間に西ドイツに渡った看護婦は1万余人、鉱夫は63〜78年までに7800余人。彼ら彼女らの送金額は年間5000万㌦に達し、一時期はGNPの2%台に及んでいる。
68年1月には、北韓ゲリラによる青瓦台襲撃事件があり、南北関係は一挙に緊張した。だが、韓国は経済成長の速度を緩めず、1970年の経済成長率は8・8%となった。
世界でも最短時間で完成した京釜高速道路(428㌔)が開通したのは70年7月。68年2月の着工だった。現代グループの総帥・鄭周永(故人)は「銃剣のない戦争だった。私は黒字を放棄し、名誉を選んだ」と語った。
前人未到の荒野を開く
現在の韓国は造船業で世界一を誇り、大型船舶の半分を提供している。だが70年代初、蔚山造船所を造ろうと英国のバークレイ銀行に頭取を訪ねたとき、鄭周永が見せることができたのは唯一、500ウォン札の亀甲船だったという逸話が残る。韓国にとって造船業は前人未到の荒野だった。
72年に7・4南北共同声明が発表され、韓半島情勢は表面的には安定に向かった。だが、73年の金大中事件、74年の文世光事件と続き、韓日関係が険悪化し、南北関係が再び緊張局面に入った。国際社会の韓国バッシングも強まった。
しかし、経済建設の槌音はそれを打ち消した。73年7月、慶北・浦項市に竣工した浦項製鉄第1期設備は、民族のエネルギーに火をつけ、韓国経済に鉄の背骨を打ち込んだ。ポスコ名誉会長の朴泰俊は「成功なければ死あるのみ、という覚悟で一貫製鉄所建設の鍬入れをした」と振り返る。
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平和を願う通商国家
さらなる夢を追う
74年は中東建設市場に進出した年である。生きるための気概は、過酷な砂漠の労働さえものともせず、韓国人の働きぶりはこの地の人々に感動を与えるほどだった。中東建設市場の開拓も、「漢江の奇跡」を成し遂げた70〜80年代の韓国経済を牽引した。
韓国は長い間、西ドイツへの鉱夫、看護婦の派遣、中東への建設労働者の派遣など、人力輸出が外貨獲得の先兵だった。それらの外貨は消尽されることなく、道路・鉄道網の整備、重工業プラントの建設、基幹産業の育成に回り、セマウル運動による農村の近代化を伴いながら、従来型産業が主導する高度経済成長の幕開けを準備するものとなった。
その一方でいち早く、次世代産業の育成に目を向けていたことを想起したい。最たる軍事的要衝として、韓国戦争の激戦の舞台となった大田広域市の「テドク・テクノバレー」と呼ばれる「大徳研究団地」がその象徴だ。起工は74年だった。
韓国高等科学技術院、韓国電子通信研究所をはじめ政府・民間の100を超える研究・教育機関が立地し、1万5000人を上回る研究者が集う。IT(情報技術)、原子力や航空宇宙開発、遺伝子・生命工学の研究に優れるほか、ベンチャー企業の創業支援でも豊かな機能を持つ。先進一流国家づくりの拠点として、なお発展途上にある。
1人当たりGDP(国内総生産)が初めて1000㌦を突破した(1034㌦)のは77年。輸出も80年の目標を3年前倒しして、100億㌦を記録した。64年の1億㌦達成からわずか13年だった。1人当たりGDPが2000㌦を超えたのは6年後の83年である。同年はまた、世界で3番目に64KDラムが開発された年だ。半導体産業が羽ばたき、電子・IT産業が韓国経済を引っ張っていく。
第5次5カ年計画の締め括りの86年は貿易黒字の元年だ。輸出が輸入を初めて上回り、49億940万㌦の経常黒字となった。90年には1人当たりGDPが6147㌦を記録。半導体が最大の輸出品目に躍り出た。
5千億㌦の輸出も近い
95年に1人当たりGDPが1万㌦を超え(1万1472㌦)、96年には1万2197㌦となり、OECD(経済協力開発機構)に加入した。だが97年、IMF危機に陥った。150万人の失業者が街にあふれたが、人々は金の指輪を供出し、経済構造改革に自らを委ねた。在日同胞も韓国戦争に次ぐ第2の国難と受けとめ、外貨送金運動を展開、総額は15億㌦に及んだ。
99年の9438㌦を経て2000年には再び1万1349㌦となり、IMF危機を乗り越えて新世紀を迎えることができた。また、この年に初めて重化学工業の比重が80%を超えた。自動車・造船・携帯電話・半導体など高付加価値、先端資本製品、価格よりは品質、デザイン及びブランド中心の製品に素早くシフトした。輸出品目は半導体・コンピュータ・自動車が1〜3位を占めた。
1人当たりGDPは2001年は1万655㌦に落ち込んだが、韓日W杯の02年には1万2093㌦、06年には1万9693㌦を記録した。同年はまた、04年の2000億㌦に続いて輸出3000億㌦を世界で11番目に達成した年でもある。
07年には2万1655㌦と2万㌦の高地に到達した。08年には1万9106㌦と下がったが、その年の輸出は4000億㌦を達成、2011年には5000億㌦も不可能ではないとされる。これを達成した国は米・独・中・日の4カ国だけだ。
前韓国貿易協会会長・李煕範は「日本が3000億㌦から5000億㌦になるのに13年を要したが、韓国はその半分で可能だ」と展望する。韓国は今、官民あげて1人当たりGDP4万㌦時代を目指す。
韓国は夢を描き、それを実現してきた。そしてさらに、大きな夢を提示する。韓国戦争から60年。未来を共有するためにも、韓国という国の越し方を見つめ直したい。
(2010.6.23 民団新聞)