責任転嫁と美化 食言と背信
1950年6月25日の韓国戦争勃発から60年になる。北韓による38度線全域での電撃的南侵による、この戦争は3年あまり続き、同胞だけでも数百万人が死亡、国土を荒廃化したのに加えて南北分断を決定的にし、固定化させた。北韓は、戦争責任を韓国及び米国に転嫁すると同時に「解放戦争勝利」と美化している。のみならず、その後も軍事的挑発やテロ攻撃をやめず、「ソウル火の海」発言など戦争恫喝を繰り返してきた。最近も「天安艦爆沈事件」を引き起こし、軍事的緊張を高めている。軍事冒険主義の原点である「韓国戦争」に関連する北韓の言説を再検証する。(編集委員・朴容正)
■□今なお続く「北侵」宣伝 教科書も事実歪曲 金日成画策は史実が証明
「1950年6月25日未明、38度線一帯で起きた不意の武力侵攻が朝鮮半島の平穏を一瞬にしてぶち壊した。共和国政府の警告にもかかわらず南朝鮮傀儡軍は北半部地域になだれ込み、朝鮮人民軍は即時打撃集団を形成し、最高司令官の反撃命令を執行した。怒濤のように南に進撃した朝鮮人民軍は6月28日、ソウルを解放した」(「朝鮮新報」08年9月22日付「共和国創建60周年‐歴史の現場で(5)」)。
北韓は、今でも6・25は韓国側が引き起こしたと偽り、謀略的に「北侵説」を繰り返し喧伝している。だが、6・25は、金日成が武力統一のためにスターリン(ソ連)、毛沢東(中国)の了解(共同謀議)の下に周到な計画と準備を整え開始したものだった。このことは、90年代になり、冷戦崩壊後の旧ソ連の史料公開などによって、もはや誰も否定できなくなった。
金日成は49年3月にはモスクワでのスターリンとの会談で南侵の意思を表明。スターリンは50年1月に計画を承認し、4月に金日成をモスクワに呼んでいる。金日成はスターリンの指示で5月に北京で毛沢東と会談して計画を説明、支持を得た。
ロシアの国際政治学者・歴史家のA・V・トルクノフは、極秘文書(3人の機密電報等)をもとに分析した『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社)で、戦争をめぐる北韓・ソ連・中国の関係はスターリンが毛沢東、金日成に対して指令を下す関係にほかならなかったことを明らかにしている。
「朝鮮戦争全史」(岩波書店)の著者である和田春樹・東京大学名誉教授も、「ソウル新聞」(6月16日付「韓国戦争60周年企画」)のインタビューで「韓国戦争は北韓が明確に武力で統一しようとの目的で南韓に侵入したものだ。北韓の南侵をスターリンと毛沢東が支持した。(略)金日成が3度ほどスターリンに南侵(計画承認)を要請し、結局、スターリンがこれを受け入れ、韓国戦争が起きた」と指摘している。
それにもかかわらず、北韓当局は、米国の指図をうけた韓国側の「北侵」によって引き起こされたかのように喧伝することをやめず、開戦・戦争責任を転嫁している。総連も同様なキャンペーンを続けている。朝鮮学校の歴史教科書「現代朝鮮歴史 高級1」(高校1年用)でも、歴史を歪曲して教えている(下記参照)。
■□「祖国解放戦争」の実相 死者500万人以上 分断固定化1000万離散家族生む
参戦中国軍が主役
北韓軍は奇襲南侵によりソウルを陥落させ、破竹の進撃で南部の釜山周辺にまで迫った。だが、米国を中心とした国連軍が9月15日に仁川上陸作戦を成功させることで戦況は一変。国連軍がソウルを奪還し、38度線を突破して北上すると北韓軍は総崩れとなった。
北韓軍の敗走に伴い、10月にはソ連軍の武器弾薬で武装した100万人の中国人民志願軍が参戦。戦争の主役は北韓軍から中国軍に変わった。12月にはスターリンの指示のもとに北韓軍は中国軍と連合指令部を構成させられた。
中国側が指揮権を握り、北韓側はその配下に入った。中国軍の彭徳懐司令が総司令官に就任し、作戦は彭総司令が毛沢東の指示を受けて取り仕切っていった。
「金日成は名目的に朝鮮人民軍最高司令官のポストを維持したが、作戦の指揮、指導からは完全に排除されることになった」(和田春樹「朝鮮戦争全史」岩波書店)。
51年7月から始まった休戦交渉も、毛沢東が管轄していた。毛沢東はスターリンに定期的に状況を報告し最重要問題に関して忠告を仰いだ。休戦交渉本会談の場で総指揮をとったのは、彭徳懐から全権委任された中国軍代表の解方少将だった。
中国・北韓連合司令部の存在は、対外的に秘密に付され、公開されることはなかった。そのため休戦協定には両軍司令官がそれぞれ署名(53年7月)することになったのである。
6・25の人的被害について正確な統計はないが、岩波小辞典『現代韓国・朝鮮』では「北朝鮮側は250万、中国志願軍は100万、韓国側は150万、米軍は5万の死者を出した」としている。
この戦争はまた、南北1000万人と言われる離散家族を生んだ。休戦から半世紀以上になるのに、これまで南北間合意により再会を果たしたのはごく一部にすぎない。北韓側の拒否により、自由往来・再結合はもとより故郷訪問や定期的面会すら実施されていない。
金日成は、自らが開始した民族相食む戦争に責任を取っていない。それどころか「外勢が強占した祖国の地を取り返す戦争」「祖国解放戦争」などと美化、休戦協定が調印された7月27日を「米国から降伏書を勝ち取った勝利記念日」と称して大々的に祝ってきた。
権力を世襲した金正日は97年4月には、7月27日を「朝鮮解放戦争勝利の日」に定め、国家的名節(祝日)に制定している。
■□休戦協定の当事国は? 韓国排除に固執 「南北平和協定」主張から一変
北韓は、今年に入ってからも「休戦協定を平和協定に代えるための会談」を速やかに始めるよう提案している。だが、この提案は、当事国として北韓と米国の名前のみを挙げ、最も肝心な当事国である韓国については一言半句もない。ばかりか、休戦協定の当事者ではないかのように強弁している。
休戦協定調印当時、韓国の李承晩大統領が「休戦は国土の分断(固定化)と同義語だ」とし「統一を阻む休戦」に強硬に反対し執拗に抵抗したことはよく知られている。だが、韓国軍はすでに国連軍司令部の指揮下にあった。
ソ連および中国の支援のもとに圧倒的に優勢な兵力を有する北韓軍の全面南侵により、総崩れ状態にあった韓国軍を建て直すため、李承晩大統領が、50年7月14日、臨時首都大田で駐韓米国大使を通じて韓国軍の作戦指揮権を国連軍総司令官(マッカーサー元帥)に委譲していたからだ(「大田協定」)。
休戦協定の署名者は、国連軍総司令官と、北韓軍最高司令官および中国人民志願軍総司令の3者である。国連軍側は、参戦16カ国が統一的司令部を構成、韓国軍はその指揮下にあったので、国連軍総司令官の署名をもって休戦協定の参加が完了した。韓国も米国などほかの国連軍参戦国と共に休戦協定の法的当事者となっている。
金大中大統領は、金正日国防委員長との「6・15共同宣言」発表後の2000年10月、「休戦協定締結当時、米国のクラーク将軍が署名したが、これは国連軍代表(総司令官)として行ったもので、韓国は国連軍の一員だったので当然協定当事者である」(10月31日付「コリア・タイムズ」創刊50周年会見)と強調している。休戦会談で韓国軍初代代表を務めた白善・元陸軍大将も「(韓国は)休戦協定に署名しなかったのでなく、国連軍の一員として韓国は含まれていた」と指摘している(「韓国日報」03年7月25日「6・25休戦50周年」)。
そもそも北韓が「休戦協定には朝鮮と中国と、そして米国が署名した」と主張、「韓国は当事者ではない」かのように喧伝し、休戦協定に替わる対米平和協定を主張するようになったのは、74年3月(最高人民会議名で米国議会宛の書簡送付)からのことである。北韓はそれまで、韓国を「休戦協定の署名当事者」として、平和協定を南北間で締結することを主張、提案していた。
たとえば、72年1月、金日成主席(当時首相)は日本の読売新聞特派員との単独会見で「朝鮮での緊張を緩和するためには、なによりも朝鮮休戦協定を南北間の平和協定に替える必要がある」と強調していた(読売新聞1月11日付「南北朝鮮の平和協定を、金日成首相が提案」)。
さらに、南北の自主・平和・民族大同団結の統一3原則を盛り込んだ72年の「7・4南北共同声明」発表の翌年、73年4月の最高人民会議では「南北平和協定5項目提案」を行い、同年6月の「祖国統一5大綱領」(金日成主席発表)でも南北間の平和協定締結を提唱していた。
74年になって突然、こうした提案を放棄したのである。以後、「南北平和協定提案」について、なかったかのように口をつぐみ、韓国を排除した対米平和協定に固執。南北の和解推進および韓半島の平和体制構築とは無縁な、真実性のない政略的キャンペーンを繰り返している。
■□「永遠の主席」の"誓い" 平和体制へ転換の道筋示した 基本合意を形骸化
韓国・李明博政府は、かねてから「南北基本合意書」(南北間の和解・不可侵および交流協力に関する合意書。92年)に基づき、北韓核問題の解決にあわせて平和協定の締結などを通じた南北間の軍事的緊張緩和と信頼構築を推進、恒久的な平和定着をめざすことを強調している。
「基本合意書」は、90年9月から開始された分断後初の南北総理会談で91年12月に採択された。「現在の休戦状態を南北間の堅固な平和状態に転換させるために共同で努力し、このような平和状態が定着するまで、現軍事休戦協定を順守する」と明記している。
「基本合意書」に含まれなかった核問題については、同年12月31日に別途開催された南北代表接触で「韓半島の非核化に関する共同宣言」草案の仮調印が行われ、92年1月に双方の総理が調印した。いずれも92年2月に正式に発効した。
金日成主席は、92年2月、平壌での第6回南北総理会談を終えた双方の代表団を前に声明書を読み上げ、「今回発効した合意文書は北と南の責任ある当局が民族の前に誓った誓約だ。共和国政府はこの歴史的な合意文書を祖国の自主的平和統一の道で達成した高貴な結実と考え、その履行にあらゆる努力を尽くす」と約束していた(林東源「南北首脳会談への道 林東源回顧録」(岩波書店))。
92年9月に署名された「基本合意書の『第1章南北和解』の履行と順守のための付属合意書」でも「南と北は『基本合意書』と『韓半島非核化共同宣言』を誠実に履行、順守する」(第18条)と明示している。
だが、北韓は、基本合意書に基づく分野別共同委員会を92年11月、一方的に中断させ、以後再開に応じず、形骸化させた。非核化共同宣言に基づき開始された南北核協議も同年末に打ち切ってしまった。
金大中大統領は、2000年6月の金正日国防委員長との南北首脳会談で、基本合意書の重要性を指摘、分野別共同委員会の再稼働の必要性を強調した。
その直後の「6・25戦争50周年記念式典」では「今後(基本合意書に基づき南北間に)軍事委員会を設置し、緊張緩和や不可侵など、平和のための措置について積極的に協議していく」と表明した。
翌年の51周年に際しての演説では「韓半島での休戦状態を終息させるために南北間で平和協定が締結されなければならない」と、北韓に呼びかけた。大統領退任後も、「基本合意書には南北が扱うべき重要な問題が網羅されている。重要な章典だ。実践されなければならない」(『月刊朝鮮』08年10月号インタビュー)と強調している。
基本合意書は、南北双方、つまり「わが民族同士」が、「韓半島の非核化」実現と合わせて、その順守・履行を、内外に公約したものだ。
北韓側が、「永遠の主席」の「誓い」どおりに、「二つの合意文書」を反古にすることなく順守・履行していたならば、2度にわたる「核危機」はなく、天安艦事態もなかっただろう。
韓半島での戦火再発を防止し、現在の休戦体制を恒久的な平和体制に転換するためには、その道筋を示した基本合意書と非核化共同宣言の再活性化が不可欠だ。
■総連傘下朝鮮学校の歴史教科書「現代朝鮮歴史 高級1」(「第2編 祖国解放戦争」抜粋)
「共和国政府は、祖国の平和統一を終始一貫主張し続け、米帝と李承晩の戦争挑発策動が絶頂に達したときにも、なんとしてでも戦争を防ぎ平和統一を実現するためのあらゆる努力を尽くした。しかし南朝鮮当局は、全面戦争に挑発する犯罪の道へと進んだ」
「米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争に拡大した」 「敬愛する金日成主席様におかれては、(25日の)会議で朝鮮人をみくびり刃向かう米国の奴らに朝鮮人の根性を見せてやらねばならないとおっしゃりながら、共和国警備隊と人民軍部隊に敵の武力侵攻を阻止し即時反攻撃に移るよう命令をお下しになった」
「3年間の祖国解放戦争は、全朝鮮を占領し、さらにアジアと世界を制覇しようという米帝の侵略計画を破綻させた」
「朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議常任委員会は、祖国解放戦争で卓越した軍事知略と指揮によって敵に殲滅的打撃を与え、祖国の歴史に不滅の業績を積まれた敬愛する金日成主席様に1953年2月7日、朝鮮民主主義人民共和国元帥称号を、7月28日には朝鮮民主主義人民共和国英雄称号を捧げた」
(2010.6.23 民団新聞)