掲載日 : [2010-07-28] 照会数 : 9236
大倉集古館所蔵の利川五重石塔 利川市が返還要求
[ ホテルオークラ敷地内、大倉集古館の裏庭にある利川五重石塔 ]
市民10万人の署名携え
併合期に不法搬出
京畿道利川市の趙炳敦市長は21日、財団法人大倉文化財団(大崎磐夫理事長、東京都港区)を訪れ、日本の植民地統治時代に不法に持ち去られた利川五重石塔の返還を求めた。同財団との話し合いは4月に続いてこれが2回目。今回は利川市民の半数に相当する10万9000人余りの署名簿を持参した。財団側から大崎理事長と大倉集古館の渋谷文敏副館長が応対した。
趙市長は五重石塔について、「利川では1000年の時を超えて市民とともに呼吸してきた。もとあった場所に戻してほしい」と訴えた。これに対して、財団側は「文化財はどこにあろうが問題ではない。保管先で大切に取り扱われ、多くの鑑賞者を集めてこそ価値がある」という自説を曲げようとしなかったという。だが、文化財返還に前向きな日本政府の動向には無関心でいられない様子だったとも。
五重石塔は高さ6・48㍍。考古学者によれば、高麗時代初期の作と推定されている。利川養貞女子中学校の敷地内に残る三重石塔とあわせ、双子の塔として親しまれていた。日本へ搬出された経緯については、韓国国内に詳細な記録が残されている。
それによれば1915年、朝鮮総督府は合併5周年を祝う「朝鮮物産共進会」の会場を飾るため利川から石塔をソウルに移したのが始まり。日本軍と取引のあった当時の富豪、大倉喜八郎は東京の自宅を改装して建てた私設博物館大倉集古館を飾る「朝鮮の見事な塔」を第2代朝鮮総督・長谷川好道に依頼。長谷川総督がこの石塔を贈った。
利川市民さえ忘れていた五重石塔を発見したのは利川出身の在日同胞・金昌鎮氏(東京・目黒区)だった。金氏は05年12月、利川文化院(李相九院長)を訪れ、石塔還収運動を提議。市民運動が行政当局を動かした。
利川市当局者は、「利川五重石塔は65年の韓日会談でも大倉の私有財産として返還リストからもれた経緯がある。時間がかかっても信頼関係を築くのが先。まず、集古館の関係者を利川に招待したい」と述べた。話し合いはこれからも継続していくことで合意した。
(2010.7.28 民団新聞)