高麗美術館特別展から
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1912年の消印がある京城(現在のソウル市)景福宮の光化門の写真絵はがき。石獣の上の少年が目を引く |
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生き生きした姿の児童たちの集合写真 |
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両班の風情が漂う格調ある写真の秀作 |
高麗美術館(京都・北区)は21日から10月17日まで、特別企画展「『写真絵はがき』の中の朝鮮民俗」を開く。日本の「絵はがき」は20世紀と軌を一にして1900年10月1日、「私製はがき」の発行が許可されたことにはじまる。展示される写真絵はがきは、植民地時代の朝鮮の人々の暮らしや風俗、自然の風景や都市のありさまなどをとらえた約300点。中でも注目されるのは、柳宗悦や浅川巧、若山牧水などの文化人や一般の人々が書き送った絵はがきだ。彼らが当時の朝鮮をどう見ていたか、その一端を窺うことができる貴重な歴史資料になっている。朝鮮とは、著名な文化人が、さまざまなかかわりを持った。文筆に秀でた彼らは、「絵はがき」をこまめに書き留めて、日本の関係者に我が意を伝えている。
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1916年、柳宗悦が慶尚南道晋州から志賀直哉に送った壷の絵はがき。下はその文面(日本近代文学館寄託)) |
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柳宗悦 初の朝鮮行
「壷又は瓶 特に目を引いた」
宗教哲学者で、『白樺』同人の柳宗悦(1889〜1961)は、1914年、浅川伯教が朝鮮から土産として持参した一つの白磁の壷に出会ったことで、朝鮮美術に開眼し、その世界に大きく傾倒していった。
柳宗悦が初めて朝鮮に赴いたのは1916年8月。釜山には浅川兄弟が出迎え、朝鮮各地を巡った。慶尚南道晋州から8月13日付で、千葉県我孫子の作家・志賀直哉に差し出された写真絵はがきの図柄は「壷」だった。
1924年、景福宮に陶磁器を中心とした朝鮮の工芸を展覧する「朝鮮民族美術館」を設立することにつながっていく予兆のようにも感じられる。
文面は次のとおり。 「晋州の山奥に来た。住民は殆ど憐れな労働者のむれに過ぎない。然し何処の家にも十五乃至二〇の壷又は瓶に飾られている、之は特に自分の目を引いた、幸ひ此エハガキを得たから送る、図には模様がよく見えないが実際は非常に線のいゝ荒い模様がある。」
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朝鮮の古蹟調査の状況を詳細に書き綴った谷井済一の黒田泰造宛ての写真絵はがきと文面 |
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谷井済一の古蹟調査
考古学者の思い彷彿
歴史考古学者、谷井済一(1880〜1959)から福岡、八幡製鉄所の黒田泰造に宛てた1911年10月24日消印、朝鮮黄海道沙里院からの写真絵はがき。
「平壌附近の調査を了し、関野博士と暫く分かれて小生及通訳は当地下車、昨日は載寧にて四百年前の古建築物を発見、本日より三四日間当地の都塚調査の□、多分千六七百年前の塚の様に考へられ申し候」
写真面には「当地此頃は晴天続きにて史蹟調査には好都合なれど空気の乾燥致すには閉口」と、古蹟調査の詳細を親友に伝えている。
本展の企画者、高麗美術館の山本俊介さんは「この絵はがきは、昨年ソウル市のコレクターから購入したものですが、その折は内容を吟味することなく、使用済みのものを収集する一環で入手しました。後日、その人となりや調査の重要性を理解するに至ったという貴重な一枚となりました。100年前の歴史考古学者の思いが彷彿と蘇ります」と話す。
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若山牧水の朝鮮からの第一信の写真絵はがき。船酔いを癒した釜山・東莱温泉。 |
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若山牧水と浅川伯教
第一信「朝鮮は気に入った」
巧の兄・伯教は朝鮮陶磁の研究ばかりでなく、彫刻、書画、和歌など多岐にわたる文化面でその才覚を発揮した。
朝鮮に旅した哀愁の歌人若山牧水が京城を訪ねた際には、浅川伯教の案内で景福宮内の「朝鮮民族美術館」の文物を鑑賞した。牧水は高麗青磁や朝鮮白磁の数々に触れて、「ときめきし古しのぶこの國のふるきうつわのくさぐさを見つ」と詠んでいる。
牧水は1927年の5月16日、夫人とともに関釜連絡船で朝鮮へ揮毫の旅に向かい、釜山港に到着。7月12日の帰国まで、57日間という生涯でも最長の旅であった。しかも翌年44歳で死去、最後の旅となった。
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「朝鮮は気に入った」と書き綴った大悟法利雄宛ての文面(社団法人沼津牧水会蔵) |
朝鮮からの第一信は、船酔いを癒した釜山・東莱温泉から静岡県沼津の創作社の大悟法利雄宛て。「朝鮮は気に入った。入りすぎて大音楽(下痢の意)を奏し、今日就床、明日、大田に赴き、福島君と逢ふ。ペコペコなれどゲンキなり」と旅の感慨を吐露している。
なお、漫画家の岡本一平(岡本太郎の父)は、「朝鮮漫画行」の中で、若山牧水についてのエピソードを機知にとんだ文章で紹介している。
「京城を出発する時、金剛山から帰りたての若山牧水君が会いに来てくれた。『どうです』と訊くと『イヤ朝鮮はおとぎ話の國です。純朴なものです』といった。純朴そのものの如きこの詩人が純朴ときはめをつけたのだからこの位確かな事はない。今この詩人が純朴な朝鮮服をつけたところを描いて見た。似合ふ。」
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浅川巧が「朝鮮は寒い処で…」と書いて送った漢江の氷上で鯉釣りをする人々の絵はがき(浅川伯教・巧兄弟資料館蔵 |
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浅川巧 故郷の少年に
みずみずしい感性で
浅川巧(1891〜1931)の写真絵はがきは、京城西大門外の林業試験所から故郷・山梨県北巨摩郡熱見村の遠縁にあたる植松左門に宛てたものだ。1915年1月30日消印。
浅川巧は当時24歳、植松左門は12歳だった。巧が1914年、朝鮮に移り住んで1年後のことだ。
2、3日前に兄・伯教の家(西大門近く)に行ったところ、左門からの「画はがき」が来ており、その返信として「君は画をよくかくねー。御両親を大事にし給へ。…一層勉強し給へ。」と励ましのことばが書かれている。
写真面には、京城の冬の風物詩、漢江の氷上で鯉釣りをする10人ばかりの人々。その写真の下部に、次の文章を添えている。
「朝鮮は寒い処で川はじが半里もある大きな川が二尺位厚く氷ります この川には長さ二尺位の鯉が澤山います 此の川ではスケートもやります」
巧のみずみずしい感性が、朝鮮の風物を少年にわかりやすく伝えている。
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朝鮮での郵便のはじまり
日本による朝鮮での郵便事業は、1876年の朝日修好条規によって、釜山が開港されると早くも同年11月、釜山郵便局の設置を皮切りに、元山、仁川、1888年に漢城(現在のソウル)と、朝鮮各地に郵便局が設けられた。1901年3月には本格的に京城郵便局が開設された。
朝鮮による郵便制は1898年にスタートし、1900年には通信院が創設され、万国郵便連合に加盟、いよいよ制度が整備された。
朝鮮半島の「写真絵はがき」は台湾や満洲の「写真絵はがき」と比べて、人々の姿をリアルにつかみ取っているのが特徴だ。なかでも朝鮮の特徴的な風物として「物を売る人」「物を運ぶ人」などの人物像を撮影したものは、対象を的確に捉えており、写真の芸術的価値も看過できない。広く社会全般のさまざまな階層の人々の風俗や都市のありさままも体系的に撮影されている。
限られた通信スペースの中では、儀礼的な時候のあいさつ、礼文、事務的な連絡などになるが、なかには旅先の印象や感慨を記し、ごく親しい人への思いやりあふれる文面が残されていることがある。それらは当時の人が物事をどのように見ていたのかを知る手がかりとなる。また、消印や切手などにより「ある日」「ある場所」が公の刻印によって証明され、特定されることになった。
▼写真説明中、所有者無記名は、高麗美術館の山本さんの所蔵。
▼特別企画展は10〜17時。休館月曜日(祝休日と重なる場合は開館し、翌日休館)。一般800円ほか。同館(℡075・491・1192)。
(2010.8.15 民団新聞)