「加害の過去知らずして未来ない」
ノンフィクション作家、角田房子さんが亡くなったのは今年の1月1日。95歳であった。折しも、韓国強制併合から100年目を迎えた年。これもなにかの因縁なのであろうか。100年間の韓日関係をテーマにした彼女の3部作(新潮社刊)−−『閔妃(ミンビ)暗殺‐朝鮮王朝末期の国母』、『わが祖国‐禹博士の運命の種』、『悲しみの島サハリン‐戦後責任の背景』は、いずれも韓国強制併合と関連した作品である。これらを通じて、何を伝えようとしたのか、行間から作者のメッセージを読んでみた。(編集委員・宋寛)
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暴挙の事実 冷厳な目で
発行部数35万部
『閔妃暗殺』は1988年に刊行され、ベストセラーとなった。単行本が2001年までに28版約20万部、93年から出された文庫本が約15万部、合わせて35万部が発行され、第1回新潮学芸賞を受賞した。今なお読み継がれ、異例のロングセラー作品となっている。
隣国の王妃を惨殺したテーマが、なぜこれほどまでに関心を抱かせるのか。
時は19世紀末、権謀術数渦巻く朝鮮朝宮廷に、類いまれなる才智をもって君臨した王妃・閔妃(明成皇后とも呼ぶ)がいた。この閔妃を、日本の公使が主謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は、国際関係史上、例を見ない暴挙とともに、いかにして日帝が韓国の植民地化に至ったのか、韓日間の根源的テーマの真相を掘り起こした。
作者がこの作品を手掛けたのは70歳を過ぎてから。駐韓大使だった後宮虎郎氏から話を聞き、「初めて隣国のことに目を向けた」という。両国民の真の友好関係を願い、相互理解を深めるため、歴史認識の格差を埋めるには、まず日本人が両国間の正しい歴史を知ることが非常に大切だと信じて書き始めた。3年間、近代の韓日関係史を学び、取材のための訪韓も5回を数えた。
知れば知るほど、「日本はこんなにひどいことをしていたのか」という驚きにうたれた。
しかし、自分の筆が自虐的になってはいけないと強く自戒しながら、「白紙の状態で歴史を見つめよう」と努めた。
1985年に西独大統領ヴァイツゼッガーが演説で、「われわれドイツ人全員が過去に対する責任を負わされている……後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはいかない……過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と語った。作者はこの1節を繰り返し読んで勇気づけられたと述懐している。
閔妃事件は、韓国人にとっての「忠臣蔵」といわれるほど、韓国で知らない人はいない。
本書では、1875年の江華島事件をはじめ、壬午軍乱、甲申政変、東学革命、日清戦争などの歴史的事件を交差させながら、大院君と権力闘争を演じた閔妃の実像に迫るとともに、その背景にある韓日関係や、日本と清、ロシアの3国の野望が渦巻く当時の情勢を丹念に描いた。そして1895年、日本が閔妃暗殺事件へ暴走したいきさつを検証していく。
鋭い人間洞察
この時代の資料は少なく、事実調べは困難をきわめたと思われるが、一本ずつ糸をたぐりよせるように丹念に調べ、平易にまとめあげた分析整理に、多くの読者が引き込まれたにちがいない。女流作家ならではの心理描写や鋭い人間洞察こそが角田作品の魅力といえよう。
脱稿後、「功罪を論ぜず、批判せず、ただ間違いのない事実だけを書くことに徹した」と語った。原稿用紙1000枚ほどになり、2冊にするという案も出されたが、多くの人々、特に若い世代に読んでほしいため、200枚以上削って1冊にまとめあげた。
近年、戦争を語り継ごうという運動が盛んになりつつある状況に対して、「大変いいことだ」と述べながらも、「自分たちがいかに被害を受けたかという話ばかりで、同じ時代に他国に対して日本が何をしたかという視点がぬけているのでは」と疑問を呈した。
「日本では残念ながら『歴史に学ぶ』という教育があまり行われていない」と指摘しながら、「アジアの人たちに迷惑をかけたことを忘れたら本当の友好は築けない」と強調し続けた。
「『相互理解』とは両者の意見が一致することだけを指すとは考えていない。相手方が何を根拠にどう考えているかを知り合うことも、すでに『相互理解』ではないだろうか。少しでも両国関係の正しい歴史に関心を持ってほしい」。このことだけを切に願っていた。
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2世の心の深層に迫る
『閔妃暗殺』では、明治時代に韓半島へ渡った日本人が、何を目的に、どのような行為をしたか、『わが祖国』(90年刊行)では、韓半島から日本に来た人々及びその子孫を、日本人がどう遇してきたかを書いたと、作者はその動機について述べている。
近代農業の父に
『わが祖国』の主人公、禹長春博士は「近代農業の父」として韓国では誰もが知っているが、彼の数奇な運命を知る人は少ない。父親は禹範善。日本人とともに〞閔妃暗殺〟の実行隊に加わり日本に亡命したが、刺客の手にかかった。長春5歳の時である。
数奇な運命にさらされた長春だったが、気丈な日本人の母に育てられた。農林省試験農場の技手になって育種学の研究を続け、論文「種の合成」で東京帝大農学博士の学位を得た。しかし、技師にはなれず、農林省をやめて、苗種の民間会社に移った。
植民地支配の罪
それが戦後、予期せぬ人生を展開させていく。1950年、長春は妻と子ども6人を残し、単身韓国に渡った。50歳を過ぎていたにもかかわらず、言葉もわからぬ韓国へ渡ったのは、なぜか。作者は韓日の関係者に取材しながら、長春の複雑な心の深層に迫っていく。それは、現在の在日韓国人2世の姿にも重なってくる。
植民地支配下では、農作物の種子を作ることは許されず、すべて日本からの輸入に頼ったため、解放後、自国で種子を作ることができなかった。多額の外貨を支払わざるをえず、経済復興への重荷となった。
たとえば、韓国人の食生活に欠かせないキムチ。その材料である白菜や大根の種子が不足したのでは、悲鳴を上げざるをえない。そこで白羽の矢が立ったのが禹長春だった。
「禹博士還国推進運動」が展開され、釜山の農場に迎えられた長春は、4年をかけて国民にとって緊急の白菜や大根の種子づくりに成功した。同時に、農業指導者の育成にも力を注ぎ、稲の品種改良や済州道のミカン増産などに寸暇を惜しんで研究を続けた。「この地に骨を埋める」と宣言したとおり、1959年にソウルで没した。
国から文化褒章を授与され、葬儀は国葬に準じる社会葬として行われた。その後、韓国農業は長春の弟子たちによって発展した。
運命の種に迫る
作者は取材する過程で、父の範善が王妃暗殺は現場に行くまで知らされず、実行犯として加担したのは濡れ衣だったとみなした。長春は結婚するとき、夫婦して須永家の養子になった。それにもかかわらず、「禹」という姓にこだわり続けたという。
長春の渡韓は、母が「父は偉い人だった。父の国の役に立つ人間になれ」と言いながら育てた影響だろうか。それとも差別ゆえか。彼の決意を「愛国心による」とだけでは説明しきれないと、作者はその動機にこだわり続けた。副題の「禹博士の運命の種」にはその思いが強く込められているようだ。
近代史の両国関係でみると、彼は被害者と加害者の双方の視点を持って生きねばならぬ運命にあったといえよう。それでも作者は、父の国・韓国と母の国・日本の狭間にありながら、両国に愛情を持っていたのではと感じつつ、常に新しいものに挑む心、学者としての開拓者魂が、父の国に向かわせた大きな要素であったのかもしれないと推測した。
「両国の関係を少しでもよくするため、まず身近なことに目を向けたい。在日韓国・朝鮮人の問題は海のかなたとのかかわりではなく、私たちの目の前に存在している」
作者は禹長春を通じてこの問題を考える基盤にした。
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非情な国家の責任問う
1994年刊行の『悲しみの島サハリン』では、戦後、独立国となった韓国と日本との関係を、サハリン帰還問題に絞って書いた。あとがきにもある通り、「初めから3部作を意図していたわけではなく、『閔妃暗殺』執筆中に、両国間の歴史について自分があまりに無知であることに驚き、周囲の人々もほぼ同じだと知って、とてもこの1冊では足りないと思い始め」、90年代初めまで手を伸ばしたのだ。
つらかった取材
日本の敗戦時、在サハリン韓国人の数は約4万数千人と推定される。多くが徴用などで狩り出された人々だ。米国とソ連(現・ロシア)の協定により、日本人の引き揚げは「日本国籍を有する日本人」とされ、韓国人は置き去りにされた。
日本政府の無責任と自国民優先、ソ連政府の傲慢、連合軍の無知、韓国政府の無関心、さらには南北の分断、米ソ冷戦など、幾重にも取り巻かれた国際政治の壁により、在サハリン韓国人の存在は闇の中に遠ざけられてしまった。
「私は、国家とは、〞非情なもの〟と受け止めている」。望郷の思いがかなえられず、国家に翻弄された彼らのどこにもおきどころのない心中を、作家は代弁した。
一筋の望みが、日本人妻の家族として日本に戻ることができた朴魯学氏が始めた、孤軍奮闘の帰還運動であった。ようやく75年に在樺太韓国人帰還訴訟が始まったものの、遅々として解決の兆しは見られなかった。
サハリンからの一時出国を認められ、韓国からの家族と日本で初めて再会を実現したのが戦後40年目。韓国への帰国が可能になったのは43年目だった。
作者はサハリン、韓国、日本の関係者を精力的に取材したが、3部作の中で、「サハリンの取材がもっともつらかった」と語った。「面談したのは自分と同じ70、80代の人々ばかり。特に、韓国で夫の帰りを待ち続ける妻たちは、一人の人間が背負いきれないほどの辛苦を体験してきた。それらの話を聞くにつけ、顔をあげることができなかった」と振り返った。
罪悪感薄い日本
この本を出したのは、戦後50年を迎える1年前だった。「戦後50年の怠惰にもとづく日本の戦後責任が問われている。なんといっても悲劇の原因をつくったのは日本なのだから。日本人は自分の受けた災害だけを語り、他国に与えた被害に対する罪悪感はきわめて稀薄と言わざるをえない。国際社会での反省と努力は、日本民族の価値人間性を測るバロメーターだ」と述べ、日本政府が早急に基金を創設するよう訴えた。
『サハリン』の原稿に追われていたころ、夫に先立たれた。精神的にかなりまいったようだが、「ここでくじけたら読者に申し訳ない。甘えは許されない。立派な作品にしてこそ夫への供養になる」と自らに鞭打つ思いで書きあげた。
「不本意な作品になって」と謙遜したが、これほど韓日の現代史をわかりやすく、鋭く描写した作品は少ない。「正しい歴史を知る」という地道な積み重ねこそ、相互理解の一歩であることを率先して示してくれたのである。
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プロフィール
つのだ・ふさこ 1914年東京生まれ。フランスに憧れパリ・ソルボンヌ大学へ留学。戦後、マスコミに携わる夫の転勤にともない、再度渡仏。このときに依頼された原稿がきっかけで、40代半ばを過ぎて執筆活動を始めた。70歳を過ぎてから韓日関係の歴史を知り、関心を抱いていく。
(2010.8.15 民団新聞)