掲載日 : [2010-08-15] 照会数 : 7263
歴史の闇掘り起こす 日帝時代の舞踊家・崔承喜
[ 小説に著した西木正明さん ] [ 「祈りの舞」を演じていたころの崔承喜 ]
植民地時代、朝鮮や日本ばかりでなく、世界で活躍する朝鮮人の舞踊家がいた。光復後は北に渡り、やがて消息を消し、戦後の日本ではほとんど忘れ去られた。その名は崔承喜。この夏、彼女を主人公にした小説が出版された。作者の西木正明氏に、この本に託した思いを聞いた。
「大輪の花」に光再び
改めて問う「北」での暗転
併合100年運命的な出版
この作品は、もともと小説誌に連載されていて、3年前終わっていたものです。その後に、大幅に手を加えてでき上がったのですが、日本による韓国併合から100年の夏に出版できたということに、少し運命的なものを感じますね。
というのは、崔承喜は1911年、併合の翌年生まれです。もしも生きていれば99歳です。植民地時代の複雑な思い、独立の喜び、当初は希望に満ちていたであろう北朝鮮での生活の暗転と挫折、そして、おそらくは不本意な形での死。
彼女は1967年7月、平壌の自宅から連行され、それっきり消息を断ちました。この年の11月、朝日新聞は北朝鮮筋から伝えられた情報として、最近、北朝鮮では反金日成派の粛清が進んでおり、舞踊家の崔承喜さん一家が軟禁されている模様と報じました。
彼女は日本と植民地下の朝鮮、そして独立後の北朝鮮と、激動の歴史の真っ只中で生きてきた、歴史の体現者そのものでもあったんですね。
日本政府は韓国併合100年に際しての談話を発表しましたが、そういう公の反省とは別に、この作品がこの100年間の歴史を背景に、激動の時代を懸命に生き、やがて闇の中に消えた多くの人々の象徴として、崔承喜に再び光があたり、韓日両国のより豊かな未来へ向けての一助になれば、望外の喜びです。
僕が出版社を辞めて物書きになってから、ずっと一貫しているテーマは、「近現代史の歴史の闇に消えた人々の記録を残す」ということなんです。
崔承喜も北朝鮮で粛清されて、今は名誉が回復されたようですが、その死の様子は全く分からない、まさに闇の中に消えてしまったんですね。
歴史の闇に消えてしまった人々の追求は、最初は日本人ばかりだったのですが、近現代史を追って行けば、当然のことに東アジア、特に朝鮮半島、台湾、旧満州、中国とかかわっていきます。
韓国人を主人公にした作品としては、数年前に『冬のアゼリア』を出版しました。この作品は、昭和天皇がまだ皇太子だったとき、英国外遊の寄港地である香港で、皇太子を暗殺しようとした朝鮮人テロリストが主人公です。
この事実は日本ではほとんど知られていませんが、別の作品の資料探しをロンドンの公文書資料館でしているとき、偶然にこの暗殺計画に触れた公文書を見つけました。
まさに近現代史の闇に消えた人物の発見の瞬間です。この公文書から『冬のアゼリア』が生まれました。暗殺計画は事前に察知され、香港市内での皇太子歓迎式典には代役が出て、皇太子は埠頭にとどまっていて難を逃れました。
天皇に衝撃の暗殺未遂事件
昭和天皇にとってこの体験は強いインパクトを残したようです。晩年の記者会見で記者から「一番印象深い出来事とは何でしたか」と聞かれたとき、2・26事件や戦争中の出来事ではなく、香港でのこの体験をお答えになったんです。聞いた記者はまったく事実を知らなかったようです。
この作品には後日談があります。3年ほど前にある公式行事で、平成天皇にお目にかかる機会がありました。天皇は会う人物について下調べをされていますから、『冬のアゼリア』の作品名も話題にのぼりました。内容はご存知なかったので、香港の事件について申し上げたら、大変驚かれたということがありました。
その翌年に、今度は秋篠宮殿下とお目にかかる機会があって、このときは殿下の方から『冬のアゼリア』に言及され、今度は僕が驚きました。すぐに宮内庁を通じて、「冬のアゼリア」を2冊お届けしました。多分、興味深く読まれたことと思います。
薄幸の生涯を文豪に教わる
僕の作品テーマは、近現史の歴史の闇の中に消された人々の記録を、小説の形で残すと言ってきましたが、崔承喜との出会いはまったく違いました。
そのことは作品でも触れましたが、僕が「平凡パンチ」の編集者だったとき、三島由起夫の自刃事件がありました。そのとき、ノーベル賞作家の川端康成に、事件に対する思いを聞くインタビューをしました。
そこで川端が、三島はアメリカのバレリーナ、イサンドラ・ダンカンの崇拝者だったということに触れ、そこから彼女よりもはるかに素晴らしい舞踊家が私たちの近くにいた、という話になりました。
それまで厳しい表情で話をしていた川端の目もとが少し緩んで、崔承喜の話をいきなり始めたのです。川端の崔承喜への思いは大変強くて、その気持ちを晩年まで持ち続けていたんですね。
そのとき僕は、崔承喜については名前すら知りませんでした。それからずっと、文豪の心を鷲づかみにした彼女の存在は気にはなっていたのですが、やっと今、こうやって小説の形で、わずかながらでも再び光をあてることができました。
この悲劇もうご免
東アジアの平和願って
独立後、理想の国であるはずの北朝鮮で粛清されて、闇の中に消えてしまった彼女について、情報はほとんどありませんでした。
数年前に、彼女についてのノンフィクションの単行本が出版されました。それは大いに役立ちましたが、私は小説の形にこだわっているので、登場人物のディテールを膨らませる情報は、やはり不足していました。
幸い、戦前、戦後ともに彼女は中国にしばしば行っているので、中国での取材が結構役に立ちました。ちなみに、周恩来も崔承喜の大変なファンだったそうです。
もちろん、韓国の方々にも大変お世話になりました。韓国での取材の時、また、在日の友人からもいろいろな資料をいただきました。彼女の母校の淑明女子大で成績表まで見せていただいて、彼女の実家の転居記録まで分かりました。
皆さんの大変なご尽力には、東アジアのかつての大ヒロインに、再び光をあてたいとの熱意を強く感じたものです。
今年、日本で国際ペンクラブが開催されます。日本ペンクラブの国際部長をやっているものですから、韓国や中国の先生がたにお目にかかれるのを楽しみにしています。
また、この作品の舞台背景は、近現代の東アジアの激動の歴史そのものですから、この100年の東アジア史の流れを知る資料でもあります。そういうこともあって、映像化の話もきていますが、リアルに映像化するのは大変でしょう。様子を見ているところです。
植民地の35年間、多くの韓国人にとっては闇の時代だったとき、崔承喜は脚光を浴びていました。そして、それが逆転した彼女の後半生には胸が痛みます。
過去100年、光よりも影が多かった時代を振り返ると、これからの100年、そして未来永劫にわたって、光が満ちるような韓日関係、東アジアにしたいとの思いは募ります。
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冬のアゼリア 大正十年・裕仁皇太子拉致暗殺計画(文春文庫)
さすらいの舞姫 北の闇に消えた 伝説のバレリーナ・崔承喜(光文社)
1970年代初め、雑誌編集者であった「わたし」は、文豪川端康成のふとしたひと言から崔承喜という舞踊家の存在を知る。以来30有余年、物書きとなった「わたし」は、川端が激賞してやまなかった彼女にあらためて興味を持つ。
承喜は1926年、10代半ばにして、日本の統治下にあった朝鮮半島から日本へ。日本近代バレエの創始者石井漠の秘蔵の弟子となり、やがて世界的に知られる存在となる。太平洋戦争終結後、マルキストだった夫と共に北朝鮮に渡った彼女は、金日成の寵愛を受けて出世するも、粛清の嵐に巻き込まれて北の闇に消えた。「わたし」はその足跡を追って歴史の迷宮に分け入った。(同書帯より)
「われわれは香港で裕仁を拉致し、獄中で呻吟している同志たちを奪還する」。朝鮮の武力独立を目指す金元鳳率いる義烈団。大正十年、外遊途上の香港にて裕仁皇太子を誘拐する計画を立てる。成功すれば世界史が変わったであろう歴史の暗部を掘り起こした力作。(同書帯より)
編集部注=文芸春秋07年4月特別号に、「新発見昭和史の超一級史料!」として『小倉庫次侍従日記』が掲載された。その1942年12月11日の「天皇が京都で語った戦争観」の項に、昭和天皇の言葉として「自分の花は欧州訪問の時だったと思ふ。相当、朝鮮人問題のいやなこともあったが、自由であり花であった」とあり、香港事件への思いが記されている。
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プロフィール
西木 正明(にしき まさあき)1940年秋田生まれ。早稲田大学教育学部中退。平凡出版で「平凡パンチ」「ポパイ」などの編集部を経て、作家活動に入る。1980年『オホーツク諜報船』で第7回日本ノンフィクション賞新人賞を受賞。88年『凍れる瞳』『端島のおんな』で第99回直木賞を受賞する。95年『夢幻の山旅』で第14回新田次郎文学賞を、2000年には『夢顔さんによろしく』で第13回柴田錬三郎賞を受賞。近著に『ガモウ戦記』『ウェルカム トゥ パールハーバー』などがある。
(2010.8.15 民団新聞)