ロマン説く研究家 宮田太郎さん 韓日のこれからの関わりを考える上で、近代や中世より以前の「古代史」にむしろ注目することで何か学ぶべきことはないのだろうか。「かつての〞古代〟という時代にこそ、朝鮮諸国と日本が力を合わせ協働し友好関係をもった歴史の事実があった。それを深く知ることから新たな韓日友好の時代を創る知恵も見えてくる」と古街道研究家、歴史ルポライター宮田太郎さん(51)は語る。
30年ほど前から独自の研究手法により東海(日本海)や玄海灘、太平洋の島々や国内外の未確認の遺跡と歴史ロマンを「海の道・陸の道」のつながりの中で追跡調査してきた。それを旅や歴史探索ウォークの形にして広く紹介。これまで各地のカルチャーセンターや地域歴史講座などで行った講演や旅も2400回を超える。
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融合なくして文化なし歴史のメッセージに学ぶ高麗若光ら渡来人の力 高麗若光(じゃっこう)をはじめとする数多くの渡来人と文化・遺跡の魅力を知る講座は年々幅広い年齢層の参加者やファンが増え「近隣国と関わりあった古代人のダイナミックな歴史や生活を考えるとなんだか元気も湧いてくる」と人気が集まっている。
宮田さんは10年ほど前に、関東に伝説が多い渡来人「高麗若光」の神奈川県大磯海岸上陸の物語を初めて演劇化し、歌と音楽・歴史解説で再現し上演したときに、とても不思議な体験をしたと話す。
2001年夏の夕暮れ時、相模原市の東橋本で「星導きて海より来たり〜橋本むかしの物語り〜」と題した歴史イベントが野外ステージで行われ、この古代ロマンに賛同する歌手のミネハハさんや奄美島唄の朝崎郁恵さん、地元劇団により「高麗若光・大磯上陸」の様子が次第に明らかにされていった。
この会場の地面の下には、飛鳥〜平安時代の古代役所やムラの遺跡が、また近くにも高麗人たちが関わるとみられる古墳群や国内最大面積の古代窯跡群が広がっており、不思議な縁がすでに始まっていたのかもしれない。
大磯海岸から若光らの大船団が到着したという場面から劇は始まった。 浜は突然目の前に現れた大船団に騒然となった。高麗若光や福徳(翁)は沖に浮かぶ船上から上陸の許可を得るべく浜の人たちに向かって「ここで上陸させてくれれば、共に手を携え子孫まで繁栄することだろう」と懸命に話しかけた。うろたえる浜の人たちの中の一長老が進み出す。遂に一行に手を差し伸べ、若光と堅い握手を交わし、村人たちも一斉に彼らを迎えたのだった。
その一行が上陸するシーンに差しかかったときに、不思議な現象が起きた。
「その時、雲間から大きな満月が顔を出しぽっかりと会場の上に浮いた。地元の市長さんも観覧者も出演者も、誰もがいつの時代にいるのかわからないような不思議な感覚に包まれた」。続いて遺跡写真をスクリーンに映しながら歴史解説をしていた宮田さんは、地面の下に眠る遺跡群から歓喜のうねりのようなものが浮いてくるのを強く感じて、涙が止まらなくなったという。
「不思議なパワーを感じて皆がトランス状態になり、高揚してどうしようもなかった」と、関係者たちは感動の中で幕を閉じたという。地元に深い古代の歴史があったことも知らない人が多くなってしまったこの時代、言葉では表せない古代遺跡の力、国を超えた交流の歴史事実の力は身近に眠っているのかもしれない。その力を現代に何とか活かしたいという願いは今も続いている。
東海の漁場仲よく漁獲 宮田さんによると、古代には限られた面積の東海(日本海)においては、かつてはお互いが漁場を争わないために、数年に一度、波の静かな海の中央に周辺諸国民族の代表が船で集まり、言葉や風習をも超えた交歓儀式によって協定が結ばれ、友好の証を打ち立てる祭りが盛大に行われていたという。
いつの日か韓日双方の有志が協働し、東アジア初の「海を介した古代の国際友好」や「渡来」がテーマの映像や映画を作るのが夢、とその思いも膨らむ。
「私たちのDNAの中には間違いなく壮大なる過去の文化交流の歴史の記憶が眠っています」。日本は島国であって、様々な渡来人との融合なくして現在の日本民族や文化は完成し得なかったと断言する。永年にわたる渡来遺跡の発見、調査などによる確かな根拠がある。
実体験通じ感動の旅も 今年の秋からは「古代に韓国と日本の男女が結婚していた」という歴史ロマンをテーマに済州島への婚活ツアーも計画中。済州島建国神話の一つ「三姓伝説」では、三神人(高乙那、良乙那、夫乙那)と五穀の種子を持って箱舟でやってきた碧浪国(日本か)の3人の王女とそれぞれ結ばれた。
「海を越えた古代の国際結婚」という感動的な神話を元に済州島の遺跡を周り、海原を自由に航海し友好を深めた時代の証を知り、また良縁をも発見してもらいたいと語る。
韓日の新時代の友好を見直す機会が、実体験し感動する古代史ロマンから、いま始まろうとしている。
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高句麗の使者で来日開拓地を広げた高麗若光 「高麗若光」は唐の侵攻と朝鮮半島の内乱を逃れ、666年5月に高句麗の使者として来日した王族の一人。日本書紀に登場する玄武若光という名の人物と同一か。668年唐の連合国に高句麗が滅ぼされる寸前に、同族の民数千人を連れて苦労の果てに神奈川県の相模湾にたどり着いた一行のリーダー。
やがて大磯から厚木の日向薬師周辺〜相模原市城山町付近〜多摩丘陵と次第に北上し開拓地を広げ、約50年後の716年に埼玉県日高市の巾着田に移住。白鬚が生えた好々爺となるまで子孫繁栄した。
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探訪しよう古街道
相模野の古代都市と高麗若光ライン 湘南海岸の大磯には、かつて明治時代以前には「高麗寺」と高麗山があり、付近は今も高麗1〜3丁目である。高麗若光上陸の浜とされる唐ヶ浜(もろこしがはま)の名は唐ヶ原の名で残る。高麗寺は現在は高来(たかく)神社。上社跡であるこの山頂の真北に埼玉の巾着田(高麗本郷)があり、ライン上には重要な寺社や遺跡が並ぶ。
まさに716年の高麗人大移動に際し聖地・高麗山々頂から高麗若光が北辰を卜し(占い、測量する)、移住地を選定してから移動したかのようだ。古くは縄文時代以来の信州・上州の「山の民」と、相模湾の「海の民」の交流の道(関東山ノ辺の道)であった。
このラインを軸に「王」字型に古代国道が広がる。中央(ゴールデンクロス)の相模原市城山、橋本、相原付近には、古代倉庫群跡や住居址群、国内最大規模の窯跡群、石室古墳や横穴古墳約100基ほか、若光時代遺跡が実に豊富である。
箱根芦ノ湖周辺の高麗(駒)形神・伝説と遺跡 箱根芦ノ湖周辺も高麗人伝説や高麗(駒)神信仰の名残りがみられる。明治時代以前までは駒ヶ岳山頂の馬降石を聖地「磐坐(イワクラ)」とする高麗大神(駒形明神・元宮)信仰が盛んで、箱根権現(奈良時代に満願僧正が開山)が統括していた。箱根権現参道の一番下の鳥居は水中に立ち、山頂から鳥居を経て対岸の塔ヶ島(箱根最古の三神の一つ)までは南北に並ぶ。鳥居前の水中にはかつての参道跡も残るか。
有名な寄木細工は石川氏の発明。高麗人から木地加工技術を教わったと伝えられ、畑宿(高麗秦?)には今も駒形神社が鎮座。芦ノ湖畔の駒形神社には古式の高麗犬像も残る。続日本紀記載の「相模国から都に硫黄が献じられた」の記事は鉱物資源を統括した高麗人たちの仕事であったか。
高麗人伝説の深大寺・深沙大王堂と長大なる参道の謎 東京都調布市の深大寺は元三大師堂と名物のそばが有名。しかし深大寺縁起にでは寺名由来にもなった深沙大王(秘仏)が中心であり、今でも西隣にひっそりとお堂がある。また関東三大白鳳仏の一つがあり、当地が古代の仏教拠点であったことを物語る。
縁起は開山の僧侶の父母の恋の成就物語。旅の福満青年と、地元の豪族・温井(ぬくい)長者の娘の双方とも、近くの狛江郷(高麗江。高句麗系の古墳群で有名)や金子郷(山陰地方や韓の国の役職者に関係)の渡来系の人たちであった可能性がある。
深沙大王堂の参道の長さは見かけは数十㍍だが、実際は延々と多摩川岸の古天神まで3㌔㍍も続く「船着き場」を持つ長大な直線参道であっただろうか。
武蔵国府建設と飛鳥の高麗人の活躍 東京・府中にあった武蔵国府政庁跡の中心は「北」を向き、東西南北方向に伸びる基準線をもとに造られたことが発掘調査で判明。これは藤原京、平城京、平安京とも同じ。飛鳥の天香具山と、武蔵国大國魂神社や武蔵御嶽神社の祭神・祭祀は深い関わりがある。
朝鮮半島文化の影響が大きいキトラ古墳や、高松塚古墳と同類の高麗系測量師が武蔵国府建設にもあたった可能性が高い。付近から出土する銀象眼太刀の一部や上円下方型古墳、八角形古墳も朝鮮文化の影響がみられる。
また埼玉県の高麗郡出身の高麗(高倉)福信は、奈良の都で出世して平城京の造宮卿になったが、武蔵国守にも数回任命されている。武蔵国内の一級国道「古代東海道、東山道武蔵路」の整備にも関わって、高倉塚の上で測量を行った可能性もある。
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プロフィール 宮田 太郎(みやた たろう)1959年東京都生まれ。古街道研究家、歴史ルポライター、カルチャーセンター歴史講師など。主な所属団体と役職・所属は、歴史古街道団団長、日本フットパス協会理事、NPOみどりのゆび理事、NPO横濱楽座理事、歴史シアターPJ代表、町田市観光コンベンション協会講師ほか。レギュラー歴史講師は、朝日カルチャーセンター新宿、横浜、湘南、NHK学園・新宿、国立本校、オープンスクール、クラブツーリズム(旅の文化カレッジ、あるく)など多数。
(2010.8.15 民団新聞)