掲載日 : [2010-08-15] 照会数 : 8361
〈知〉の世界を拡げる『訓民正音』 言語学者・野間秀樹さんに聞く
[ 野間秀樹さん ] [ 『訓民正音』の解例本 ] [ 15世紀半ば英断の大王 ソウルの光化門広場に建つ世宗大王の像 ]
15世紀半ば、朝鮮王朝の時代、世宗大王は有能な学者たちを登用し、〈訓民正音〉(くんみんせいおん)を創製した。〈訓民正音〉は〈正音〉(せいおん)とも呼ばれ、後にハングルと名づけられた。「ハングルを見据える中で、私たちは〈音(おん)が文字となる〉驚くべきシステムを目の当たりにする」と語る言語学者の野間秀樹さん(57)は、このほど、著書『ハングルの誕生−音から文字を創る』(平凡社新書)を刊行した。15世紀に至るまで、朝鮮語は多くの言語と同様、〈話されたことば〉としてのみ存在した。〈正音〉の創製によって、未だかつて誰も見たことのない、15世紀朝鮮語の〈書かれたことば〉がこの世界に出現した。ハングルの誕生と発展には〈知〉をめぐる壮大なドラマがあった。
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音から文字を創った
「師なくして自ら悟らしめん」
−−この本で一番強調なさったことは
ハングルというものは、凄い、そして面白く、深いということです。そのことを本当に知るためには、どうしてもハングルの持っている普遍的な深さを見たい。
ハングルというものを見ると漢字も見えるし、仮名やローマ字も見える。また文字だけではなく、ことばや、あるいは人間にとって文字とは何か、言語とは何か、〈知〉とは何かという非常に大きな問いを問うことになる。そこが面白いわけです。
私は言語学を学ぶ者ですので、ハングルに対する思い入れも大きいと思いますが、百歩譲って見ても、〈訓民正音〉の創製にまつわるドラマは、驚異的な〈知〉の世界です。〈訓民正音〉は、きちんと見据えるなら、必ずや多くの人々と感動を共にしうるような存在だと思っています。
−−〈訓民正音〉は他の文字と比べて、どのような点が面白いのでしょう
書物に編んで世界史に登場
もちろん、漢字も仮名もローマ字も面白い、血湧き肉躍るほど、ものすごく面白いのです。ただ、〈訓民正音〉がほかの文字と決定的に違うことがある。
それは世界史への文字の登場の仕方です。文字とは亀の甲羅に彫られたり、石に刻まれて世界史に登場しますね。しかし〈訓民正音〉は、木版に彫られ、紙に刷って、それを製本し、何と書物に編んで世界史の中に登場します。
その書物に何が書かれているかというと、そこには〈正音〉は誰がために、いかなる目的で創られたということが書かれている。そしてこのように用いるのであると。乞(こ)い願わくは、〈正音〉を見る者に、師なくして自ら悟らしめんことを、などと書いてある。これが『訓民正音』の解例本(かいれいぼん)と呼ばれる書物です。〈訓民正音〉とは、ですから、文字体系の名称であると同時に、書物の名称でもあるわけですね。
さらに『訓民正音』諺解本(げんかいぼん)と呼ばれる書物が作られます。〈諺解(げんかい)〉とは、漢文を朝鮮語に訳した形式でハングルを用いて書くことです。漢文で書かれた『訓民正音』解例本を、まさに〈正音〉で諺解の形にした書物、これが『訓民正音』諺解本です。そこでは文字通り、〈正音〉によって〈正音〉のありようが語られているわけです。いわば、『訓民正音』という書物は、〈文字自らが文字自らを語る書物〉なのです。
こうした意味で〈訓民正音〉の登場の仕方は実に他に例を見ないものだったわけです。
もう一つ面白いことがある。文字というのはどういうものかというと、文字とは〈書かれたことば〉ですね。文字を読むときは、普通、どんなに短くても長くても、誰かが何かについて語ったものを読むことになります。そこに書かれていることは、過去に誰かが何かについて語った、広い意味での、一種の〈物語〉です。
文字の始まり読む人が体験
ところが、『訓民正音』に〈書かれたことば〉を読むときには、過去の物語を読むだけではない。私はこういう文字である、私はこういう文字だから、こういうふうに読んでね、ということを、いま・ここで、読む現在に体験することになる。
こういう本というのは、ちょっとありません。つまり、文字としての原初、音(おん)が文字になるそもそもの始まりを、この書物を繙(ひもと)く人の全てが、常にいまその場で〈出来事〉として体験することになる書物なのです。いまそこで文字が文字として生起する、そういう体験をする。これは本当に凄いことです。
−−『ハングルの誕生』のことばで言うと、音(おん)が文字になる瞬間を、まさに出来事として体験できる
その通りです。例えば、この本でも扱いましたが、インドネシアの少数民族の言語、チアチア語をハングルで書くということ。これは私がたまたま韓国にいた時に、ニュースで大きく取り上げられていました。
深い出来事に感銘を受けた
私が感銘を受けたのは、ハングルが世界に出たということよりも、もっと深い出来事がそこに起こったと思うからです。
チアチア語という言語は、〈話されたことば〉としては存在したけれど、〈書かれたことば〉として存在したことはなかった。それが〈書かれたことば〉として存在するようになった。
つまり、この世界に音(おん)としてのことばはある。しかしそれが書かれるということがない。15世紀の朝鮮語もちょうどそうであった。〈書かれたことば〉というものが存在しない言語。そういう言語を用いる人々のために文字で書いて、チアチア語のこの音がこういうふうに書ける、この文字がこのように読める、それを人々が体験する。それはまさに世宗大王が考えていたことです。
韓国語や日本語は書かれるのが当たり前になっているので気づきにくいのですが、世界中に数千はあると言われる、ほとんどの言語は〈話されたことば〉しかない。文字に書かれる言語は非常に限られています。そうした〈話されたことば〉が、例えばハングルという文字によって〈書かれたことば〉として地球上に登場する。これは涙が出るほど、感動的なことですよね。
世界にたった一つ残っていた『訓民正音』解例本という本は、ソウル大学校の金周源先生の近年の研究によって、現代になって再発見された当時も、女性たちのための教育に、『訓民正音』そのものが実際に使われていたのであることがわかっています。
驚きと感動できっと学んだ
発見された慶尚道の旧家で『訓民正音』を囲んで学んだ人たちは、どういう体験をしたでしょう。ああ、私たちのこのことばはこう書けるのだと、皆がきっと驚きと感動をもって学んだのではないでしょうか。その喜びは、決して一つの言語圏の喜びに留まらない。チアチア語のみならず、ことばというものを知る全ての人々が、共にしうる喜びだと思うのです。
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漢字漢文の世に革命
イデオロギーと表裏一体で
思想や感性で歴史に挑んだ
−−文字が創られただけでは、文字として働かないのだ、そこには〈命がけの飛躍〉が必要だということも、お書きになっています
ええ。音(おん)を基礎にして文字を創った。でもこの音をこう表すと決めたからと言って、今日私たちが〈文字〉と呼んでいるようなものになるわけではありません。文字が音を表す、ではその文字で単語は書けるのかという問題がある。次に文が書けるのか、その文のつながったテクスト、一連の長さの文章は書けるのかという問題が来る。文体も創らねばならない。
一方で文字を〈書く〉ためのあらゆるシステムや技法も必要になります。筆で書くときはどうする、タイプライターで打つときは、スマートフォンならどうする、フォントはどうする、といったことまでですね。
〈文字〉が〈文字〉たるためには、思想や感性、身体からテクノロジーまでも含んだ、膨大な問題があるわけですね。〈正音〉は歴史の中で、それらに一つひとつ挑み、一つずつ新たな地平を獲得してきたわけです。そうした壮大な歴史があるわけです。
−−なるほど。文字とは紙の上だけの出来事ではない
そうですね。文字というのは例えば政治などとは全く関係ないものだと、思いがちですが、そんなことはない。イデオロギーと表裏一体です。政治の影響を受けて、潰(つぶ)されたりと、いろいろなことが起こりえます。
〈訓民正音〉はそもそも創られるときからそうでした。崔萬理(チェ・マルリ)という方たちは〈正音〉の創製に命がけで反対します。朝鮮王朝に生きる崔萬理たち士大夫(したいふ)にとっては、生まれてから死ぬまで、そして死んだ後も漢字漢文の世界です。
官吏登用試験である科挙などは言うに及ばず、詩を書くのも、文を認(したた)めるのも、王から死を賜るのも、死してのちに許されるのも、全て漢字漢文で〈書かれたことば〉によってでした。およそ〈書かれたもの〉というのは、漢字漢文のことであって、それ以外のものはあり得なかった。そういう漢字漢文の磁場に生きていたのですね。
従って王朝の知識人たちにとって、〈正音〉、ハングルのような仕組みなど、絶対にあり得ない存在なのですね。自分たちのありとあらゆる〈知〉というのは漢字漢文で形成されている。
例えば〈仁〉なら〈仁〉、〈義〉なら〈義〉という文字を単位として私たちの思想、知の全てが成り立っている。知の核になるものは、全て漢字です。漢字をこの本では〈細胞〉という比喩で表しましたが、細胞である漢字の一つひとつに意味があり、これを組み合わせて知を形成している、そういう考え方ですね。考え方と言いましたが、何か選択できる考え方の一つといったものではない。
漢字漢文が入ってきて以来、15世紀に至るまで、朝鮮、高麗、新羅などといった王朝を貫いて、あらゆる知識人が、原理的に、崔萬理と同じように考えていたのです。だから崔萬理たちがいくつもの王朝さえも貫く正統であり、原理主義であり、世宗大王たちこそが異端であり、革命派だったのです。
〈知〉とは漢字を単位として初めて成り立つものだった。〈正音〉のように、これが/a/で、これが/u/でなどといったぐあいに、細胞をいわば原子や分子に解体してしまうのは、そんなものは〈文字〉といったものではないと、崔萬理たちは正音革命派の理論の前に驚愕したのです。
世宗大王貫く用音合字こそ
王を諫(いさ)めるために、提出した〈上疏文〉(じょうそぶん)の中で、崔萬理は「音を用ゐて字を合はすは、尽く古に反す」ということばで正音を批判しています。〈用音合字〉はことごとく、いにしえの習わしにはないものであると。世宗大王はそれを読んで、真っ先にこの〈用音合字〉の下りに反論しています。
この点について研究者たちは皆、あまり注目していませんが、王が最初に問題にしているというのは、〈用音合字〉の思想こそが問題の核心だからなのです。これは〈知〉について語っているわけですね。政治ではない。知的な文字論、言語学的な議論を王宮の中で、この時代にやっている。こういう知的な営みが、王宮の中で公然と行われて、それがきちんと記録されて残っているのも驚きです。
世宗大王たち革命派が闘った相手は、朝鮮半島の一千年を貫く、漢字漢文を基礎にした〈知〉のありようの全てであったわけです。
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一つの言語圏の財産超えた存在
−−ハングルはこれからどのような方向へ向かうのでしょう
これからハングルが、どちらへ向かうかということは、ハングルが決めるのではなく、人間が決めることですよね。政治や経済、社会といった、いろいろな条件と関わりながら変わっていくでしょう。
その際に、希いを述べるのが許されるのなら、今後、ハングルをめぐる〈知〉の、さまざまな豊かな可能性、私たち人間にとっての普遍的な可能性を、できるだけ多くの人々が共にできれば嬉しいですね。
その出発点の一つとして、ハングルの誕生と成長の中の〈知〉や経験といったものを、皆で少しずつでも、共有化していけたらと思います。『ハングルの誕生』の中に書いたようなことの一部は、実は日本の国語の教科書や英語の教科書で触れられてもいいようなことなのではないでしょうか。
−−一般の読書人を対象に、ハングルについてこれだけ広く、深く、面白く書かれた書物はありませんでした。記者自身が読んで受けた感動を考えてもそうですし、刊行後3カ月で、あちこちの書店で既にベストセラーの呼び声が高いのを見ても、『ハングルの誕生』は先生のおっしゃる知の共有化のための革命的な力となる予感がします
ハングルはその深さ故に、単に一つの言語圏の財産なのではない。人間にとってことばとはいかなるものか、文字とは何かといった、普遍的な問いを投げかけてくれる、そうした存在です。ハングルを照らすと普遍が垣間見える、それが本当に凄いことだと思うのです。おっしゃる通り、この小さな本が手がかりの一つになってくれたら、こんな嬉しいことはありません。
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プロフィール
野間 秀樹(のま ひでき)1953年生まれ。朝鮮言語学、日韓対照言語学などを専門とする言語学者。著書に『韓国語語彙と文法の相関構造』(ソウル、太学社)、『新・至福の朝鮮語』(朝日出版社)、『絶妙のハングル』(日本放送出版協会)など。共著書に『ニューエクスプレス韓国語』(白水社)、『きらきら韓国語』(同学社)、編著書『韓国語教育論講座全4巻』(刊行中:くろしお出版)。05年大韓民国文化褒章受章。96〜97年ソウル大学校韓国文化研究所特別研究員。前東京外国語大学大学院教授。
(2010.8.15 民団新聞)