掲載日 : [2010-09-08] 照会数 : 5642
サラムサラン<30> 切抜きを持った青年
その記事の切抜きを、私は永遠に忘れない。記事の内容ゆえにではない。記事を切り抜いて大切に保管し、ポケットから取り出して見せた青年の気持ちが、何とも嬉しかったからである。
1995年2月、尹東柱の没後50年の追悼式が、詩人の母校、延世大学で行われた。私はNHK=KBSの共同制作番組の取材で、式典の撮影に訪れた。まずはKBS側のディレクターとともに、総務課のようなところに挨拶をしたが、担当の初老の男性は、不満を露骨に口にした。
韓国民にとって詩聖である尹東柱の番組を、なぜ日本なんかと一緒に作るのか…。KBSのディレクターも意義を説明したし、私も日本の視聴者が尹東柱を知ることの意味を語ったが、男は聞く耳を持たずで、取りつく島がなかった。
意気消沈したまま、式典会場に入った。まだ準備中で、人の少ない中、カメラなどのセッティングを始めたが、ぎすぎすした心の傷は、癒えそうになかった。日韓の間に立ちはだかる「壁」が、他ならぬその壁を取り払おうとする取材の現場で迫ってきたのである。
その時であった。一人の青年が私に近づき、挨拶をして、胸ポケットにしまわれた切抜きを取り出した。「この記事の方ですよね」‐。それは前年の秋、ロケを始める前に訪れたソウルで、番組制作に臨む抱負など、私にインタビュー取材した新聞記事だった。私の写真も載っていた。
取材の際、私は拙い韓国語ながら、尹東柱の詩と生涯を通して、戦時下の韓国人の痛みを日本人が知ることができることを語り、その上で、過去への贖罪意識だけで番組制作に臨むのではなく、尹東柱は常に人生の道を示してくれる私にとっての宝のような存在であり、その詩と人への愛がすべての動機だということを述べた。
「感動しました」。青年は語った。国境を越えて尹東柱が理解され、愛されることが、彼には嬉しかったらしい。記事を切り抜き保管して、追悼式に私が現れたら、ひと言、自分の気持ちを伝えたかったのだと述べた。
嬉しいのは私の方であった。暗澹たる気持ちに、ぱっと光が射した。「カムサハムニダ」。私は総務課での悲しい出来事には触れず、感謝のみを青年に伝えた。式典が始まり、青年の名を尋ねる間もなく別れてしまったが、感動は長く心に残った。
以来、日韓のことで傷つき、「壁」が近づく時、私はいつもこの青年を思い出す。希望を捨ててはいけない。すべてがノーではない。切抜きはそのことを教え、私に勇気を与えてくれるのだ。
多胡 吉郎
(2010.9.8 民団新聞)