掲載日 : [2010-09-08] 照会数 : 8458
<寄稿>どうなる「首領体制」 デイリーNK編集長 孫光柱
改革開放の足かせ
市場に力、空洞化進む権力
2年余の短い間に国際秩序を一変させた、一連の歴史的事件からすでに20年が過ぎた。
ベルリンの壁の崩壊が1989年11月。翌12月にはルーマニアで流血革命が起き、北韓式の世襲独裁を夢見たチャウシェスク大統領夫妻は、軍事裁判で死刑を宣告され、ただちに銃殺された。3カ月後の1990年2月、共産主義の宗主国ソ連は、共産党一党独裁に終止符を打ち、複数政党制へと移行した。そして同年10月、東西ドイツが統一された。
ゴルバチョフ大統領は91年8月、ソ連共産党の解体を宣言し、その年の12月、ソ連が崩壊した。ゴルバチョフ大統領のソ連共産党解体宣言は、70年にわたる共産主義実験の完全なる失敗を確認するものだった。
チャウシェスク政権の滅亡とドイツ統一は、北韓政権の崩壊と韓半島統一を予言するかのようであった。しかし、それから20年が過ぎても、2300万同胞たちは依然として金日成・金正日体制下に生きている。しかも、3代目への世襲が企まれている。20年前の東欧と北韓社会のこのような不一致は、どこに起因するのだろうか。
共産主義実験最悪の事例に
北韓の歴史は、共産主義の実験のなかでも最悪の結果を見ている。共産圏でも類例のない首領絶対主義体制が樹立され、住民たちは恐怖の監視・統制のもとで、金父子政権を存立させる人柱にならねばならなかった。共産圏の中でも北韓ほど監視体制が絶対化された国家はない。
1940年代末のスターリン独裁時代にも、現在の北韓のように30世帯を一つの単位にして、お互いを監視させる「人民班」制度はなかった。50年代のソ連住民たちは、少なくとも国内では自由に旅行ができたし、外国放送を聴取できるラジオを買うことができた。東欧諸国はソ連よりも自由であり、教会を中心に低い水準ながらも市民社会が形成されていた。
特に、東西ドイツは長きにわたる書信交換、放送交流などを通じて、お互いによく双方の社会を知っていた。ソ連でペレストロイカが始まった85年当時、東欧ではすでに民主化運動のための土台が培われていた。だが、北韓には今も「人権」「市民社会」という概念自体が存在しない。
中国は毛沢東の大躍進運動、人民公社の相次ぐ失敗と約10年続いた文化大革命によるすさまじい葛藤を経て、78年から改革開放に舵を切った。しかし、金日成・金正日政権は、小平の改革開放路線を修正主義と否定し、閉鎖的政策で一貫した。結局、北韓は極度の食糧難に陥り、94〜98年の間だけでも300万人が飢えや免疫力の低下で死亡した。
それでも金正日は改革開放には向かわず、核開発を選択した。金正日にとって住民たちは、自身の政権を維持する「道具」に過ぎない。住民のための政権は存在せず、政権のために住民が存在する。その核心がいわゆる「首領決死擁護」である。
98年の金大中政府による太陽政策は、このような状況下で展開された。太陽政策を医者の医療行為にたとえれば、「初診」に大きな誤りがあった。金大中大統領は、「北韓が改革開放に向かわない道理がない」と診たて、国際社会が北韓政権の安全を担保し、経済支援を継続すれば、核を放棄すると主張した。
しかし、金正日政権は太陽政策を逆利用し、ドルと食糧・肥料など経済支援を受け取りながら、核開発をアップグレードさせ、先軍路線をより強化した。結局、太陽政策下で北韓は実質上の核保有国となった。太陽政策は金正日の先軍路線に完敗したのである。
北韓に改革開放を忌避する首領主義政権が続く限り、韓半島の真の平和体制構築も、真の和解協力や平和統一推進も不可能だ。首領主義と自由民主主義は根本的に相容れない。北韓住民たちは飢えにおののき、人間らしい生活ができないままだ。南北が平和体制‐平和統一に向かう第一の関門はまさに、北韓の改革開放への転換である。
旧ソ連の体制変化もスターリンの死亡(1953年)にともなう首領独裁の弱化、ヘルシンキ宣言(75年8月。全欧安全保障協力会議の最終文書)、ペレストロイカ(1980年代後半。政治体制改革運動)が重要な分水嶺となった。中でも最も重要だったのは、スターリンの死にともなう首領独裁の弱化であった。
北韓の場合でも、独裁者は永遠ではない。金正日が死亡すれば、短期間に体制変革の過程に移行できよう。北韓内部でもすでに、意味のある変化が進行している。90年代中盤から、住民たちが生きるために開拓した市場が最近、いっそう活性化している。
昨年12月、市場を統制するために断行された貨幣改革は、完全な失敗に終わった。市場の拡大は、北韓の首領‐党‐住民大衆という垂直体系、即ち指示‐服従関係を空洞化させている。当局と市場の力勝負で、市場が勝利しているのである。
より積極的な方案の推進を
しかし、北韓の非核化・改革開放、韓半島の平和構築から平和統一に進もうとすれば、韓国政府のより積極的な対北戦略が要求される。天安艦爆沈事件以降の情勢は、韓半島の地政学的位相を客観的に見せてくれた。
爆沈事件に対する警告の性格を帯びた韓米の西海合同訓練を、中国は実弾訓練までしながら頑強に反対した。その中国によって国連安全保障理事会の議長声明は、天安艦攻撃の主体が抜け、「天安艦沈没を招来した攻撃を糾弾する」となった。これが韓半島の直面する冷厳な現実である。
北韓は2012年まで、政権の存続と3代世襲作業のため韓半島の緊張を継続して高める可能性が高い。2012年の韓国総選挙、大統領選挙に際しても、「戦争か平和か」を迫りながら南南葛藤を煽り、韓半島の平和維持費用を要求してくるものと予想される。
このような悪循環構造を断つためには、現在の首領体制を改革開放体制に転換させる方案を含む統一政策、平和のための究極的な大戦略を推進しなければならない。米国との同盟をいっそう堅固にし、日本、欧州諸国をはじめとする自由・民主主義諸国との連携を強化する必要がある。それを支えるためにも、民族全体の幸福という大目的に突き進む覚悟を確固たるものにしたい。
(2010.9.8 民団新聞)