掲載日 : [2010-09-08] 照会数 : 12458
教え子たちが継ぐ 還暦迎えた大阪市の民族学級
[ 金相文さん ] [ 金徳美さん ] [ 郭政義さん ]
次世代育成に使命感
【大阪】韓半島にルーツを持つ子どもたちの民族的アイデンティティを培ってきた大阪市内の民族学級が今年、還暦を迎えた。解放直後には朝鮮人学校強制閉鎖、65年には民族教育を認めないとした文部省通達に苦しめられ、一時は存亡の危機にも見舞われた。それでも、保護者の熱意に支えられ、民族講師のバトンは1世から2世世代の教え子へと着実に引き継がれている。設置校は現在、大阪市内に105校、大阪府内では約180校を数える。
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息苦しさから逃げ回っていた
金相文さん
金相文さん(59、大阪市立巽南小学校教諭)が民族講師の金容海さんと出会ったのは北鶴橋小学校当時。もともとが民族に関心がなかった。金容海さんは「恐くて難儀な先生だった」。「週1回だが、遊びたい盛り。放課後も帰れず、収容されているような感じ」が嫌で、逃げ回っていた。それでも、たくさんのことが記憶に残っているという。
「ウリナラの北は冬の寒さが厳しくて、小便をすると手で切り取ったとか、タオルをまっすぐひっぱって刀をつくり、チャンバラして遊んだという話を思い出す」
教師になって初めて教壇に立ったとき、「金です。朝鮮人です」とあいさつした。すると、子どもたちから「先生、朝鮮から通ったらいったい何時間かかるんですか」という質問が返ってきた。金さんは「学校っておもしろいな」と感じたという。 民族講師の生活が成り立つような制度保障を望んでいる。
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民族教育の思い親から子どもへ
金徳美さん
金徳美さん(57、大阪市立舎利寺小学校民族学級講師)は、舎利寺小の前は北鶴橋小、北中道小などでキャリアを積み上げてきた。金容海さんを師と仰ぎ、民族教育にかける情熱を忠実に継承しようと心がけてきた一人だ。
スタートは守口市立第2中学校。同校に民族学級は開設されてなく、まったくゼロからのスタートだった。数カ月前、数十年ぶりに当時の教え子からの電話を受けた。その声は誇らしげだった。 「『守口市の集い』で娘がプク(太鼓)を叩いたんだ。娘の通う小学校にも民族学級があるとわかって、うれしかったな。おれ、昔のことを思い出してんねん。あのころ、おれらも頑張ってたよなぁ」
親となって子どもの手を引くかつての教え子と入学式で再会することも珍しくない。今度はわが子を民族学級に入れ、自らは保護者会で新たな同胞との出会いをつくっていく。そんなとき、金さんは「仕事を続けてきてよかった」と思う。
「民族学級は私たち在日の大切な宝もの」という金さん。「子どもたちの笑顔が在日の未来をつくります。多くの人たちに民族学級の実態を知ってもらい、支援してほしい」と話している。
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「朝文研」での出会い契機に
郭政義さん
郭政義さん(57、大阪市立北鶴橋小学校民族学級講師)は、直接の民族学級体験はない。高校を卒業後、ソウル大学校在外国民教育院で1年間学ぶ。帰日後、中学校の社会科免許を取得した。
教育実習で訪れた出身校の大阪市立生野中学校「朝文研」で在日同胞生徒とふれあう。同校で6年間民族講師をし、民族教育促進協議会に関わる。太平寺夜間中学に勤務のあと金容海さんに誘われ、05年から北鶴橋小学校で教えている。
民団大阪本部に対しては、オリニジャンボリーの独自開催を希望している。「ジャンボリーに参加すると、子どもたちの表情が変わります。民団中央が実施しない年は、関西地域の子どもたちを集めて独自に実施してほしい。民族学級と違って外での接点は子どもたちの成長に欠かせない」。 今後は民族学校との連携が必要と話す。
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民族学級とは
解放後、帰国準備のため国語の読み書きや歴史を教えたのが始まり。一時期は全国に500カ所を超えた。1948年、文部省(当時)が「朝鮮人学校」を認めないとの通達を出したため、阪神地域を中心に当局との間で衝突が相次いだ。同年6月、大阪府知事と同胞代表との間で「覚書」が交わされ、公立学校における民族教育が認められるようになった。1950年、北鶴橋小、北中道小、小路小など大阪の公立学校33校に民族学級が開設されたのが、今日の民族学級(民族クラブ)の始まり。
(2010.9.8 民団新聞)