掲載日 : [2010-09-08] 照会数 : 9200
民族講師のバトン 金容海氏の37年
[ 小学校2年生の民族学級(大阪市内、09年2月) ] [ 元民族講師の金容海さん ] [ ハングルで初めて書く名前(大阪市立舎利寺小、09年) ]
1万1500人を指導
いばらの道切り拓く 同胞保護者会の支援受け
大阪市立北鶴橋小学校は1950年4月の開設。金容海さん(84、大阪市)は前任者の後を継いで1951年7月に着任した。退任の87年までの37年間で金さんが送り出した修了生は1万1500人に上る。
当初、北鶴橋小では放課後、講堂で420人の児童を一人で担当した。周囲の日本人教職員は総じて非協力的だった。教材として使うザラ紙をお願いしたいと職員室に行くと、「朝鮮人にやるものはない」と言われたという。ストーブの石炭さえもらえなかった。当初の給料は、日本人教員の約3分の1だった。生活にも困り、家庭教師のアルバイトをしなければ生活が成り立たなかった。
1、2年で音をあげそうになった金さんを保護者が「絶対辞めないで」と押しとどめた。保護者会は総会を開き、みんなで協力して、「先生に給料は出せないけれど」と、紙や鉛筆、チョークを調達してくれた。
しかし、一部の子どもたちにとっては、級友が歌を歌いながら帰って行くのを窓越しに見ながら「アヤオヨ」を勉強するのは苦痛だった。教室から逃げ出す子どもたちを玄関に立って待ち構え、教室に戻すそんな繰り返しが続いた。金さんの苦闘を支えたのは、自分の名前が書けるようになり、「お母さんからほめられた」という子どもたちからの報告だった。
だが、60年代以降から朝鮮学校の再建が相次ぐと、民族学級は相対的に衰退していく。一時期は最盛期の3分の1まで激減した。金さんは60年代後半から民族学級の灯を消してはならないと、民団大阪本部文教部長として大阪府や大阪市と交渉を重ね、「本名を名乗ることは民族の誇り」と訴え続けた。
すると、72年に大阪市が「学校教育指針」に在日外国人教育に関する項目を記載した。これを後押しするように「大阪市外国人教育研究協議会」も発足した。北鶴橋小学校は73年度から「差別をさせない、させないための人間教育」を教育目標に掲げるようになった。
74年4月には大阪市教育委員会が本名を用いる教育」を方針として打ち出し、民団の交渉が実を結ぶ。民団大阪本部はその後も年1回、府、市との交渉をかさね、民族学級の制度的保障、民族講師の待遇改善などを推し進めている。
(2010.9.8 民団新聞)