掲載日 : [2010-09-16] 照会数 : 5668
サラムサラン<31> ソウルの練習問題
韓国に通い始めた80年代の中頃、1冊の画期的な韓国訪問記が出版された。関川夏央氏の「ソウルの練習問題」である。
まだ日本の知識人の多くが、韓国といえば独裁政権下にあると思い込み、その反動で、北には親近感を抱いていたような時代だった。
半島について語ろうとするのは、朝鮮問題に一家言(いっかげん)ある訳知り顔の人たちばかりで、肩を怒らし、唾を飛ばして論じながら、隣国で「こんにちは」の挨拶を何というかも知らないという、今から見れば、とんでもなくイデオロギーに偏した時代だった。
隣国を語るに、頭でっかちな観念から入るのではなく、まずはその言葉を学び、現地の人々に混じることで、裸眼でものを見る大切さと醍醐味を教えてくれたのが、関川氏のこの本だった。
何を見ても、ああやっぱりと、先入観に塗りこめて素通りしてしまうのではなく、そこに予想外のものが見え、聞こえてきた時に、一体これは何だろう、何故だろうと、問いを積み重ね、理解を深めていく。やがてそこから、ステレオタイプに堕した既成の概念にはない、生き生きとした素顔の人間集団の真実が浮かび上がってくる。
あれから四半世紀。韓国も変わったし、日本人の韓国観もずいぶん変わった。韓流ドラマをはじめ、韓国情報はお茶の間に溢れ、韓国を訪ねる人々も飛躍的に増えた。
そのことをよしとした上で、なおも疑問を発したい。今、韓国を訪ねる日本人のどれほどが、それぞれの「ソウルの練習問題」を意識しているだろうか。韓国に触れて、どのような「練習問題」を、自らに問いかけているのか。
無論、ここでいう「練習問題」とは、千ウォンが何円に当たるとか、どこに行けば何が安く買える、どこのレストランが美味いかなどということとは、次元を異にする。
イデオロギー優先の観念論はまっぴらだが、せっかく足で歩き、素顔に接していながら、そこに問い、考える姿勢がなかったなら、「近くて遠い」という十年一日の常套句がいまだに語られる日韓の距離は、永遠に縮まることがないだろう。
逆のこともいえる。今や日本を訪れる韓国人観光客は多い。日本人にとって「ソウルの練習問題」があるのと同じく、韓国人にも、「東京の練習問題」や「大阪の練習問題」があってしかるべきなのだ。
先入観を上塗りする方が楽なこともある。だが、異なる相手の中に何かを発見し、胸に響く思いを得たなら、そこには必ずや、忘れがたい感動が伴うに違いないのである。
(2010.9.15 民団新聞)