掲載日 : [2010-09-29] 照会数 : 7428
<検証>NHKドラマ『坂の上の雲』
[ 「帝国軍隊平壤大勝利」の錦絵=在日韓人歴史資料館館長・姜徳相氏所蔵 ]
「明治」賛美のリスク大きい
NHKが12月に放映するスペシャルドラマ『坂の上の雲』(第2部・全4回)は、ロシアとの開戦(1904年)に向かっていよいよ佳境に入る。視聴率アップへ関連イベントも今から目白押しだ。であれば、原作である司馬遼太郎(1923〜96年)の同名小説が、明治期を近代日本の青春時代として雄々しく美しく描くことで、多くの歴史的事実から目をそらしていることを改めて想起したい。
「朝鮮を書かないで、明治は語れない」(中塚明・奈良女子大名誉教授)にもかかわらず、司馬は明治日本が朝鮮に何をし、朝鮮人はそれに対してどう動いたのか、一切書いていない。NHKは昨年の横浜開港150年、今年の韓国併合100年、来年の太平洋戦争開戦70年、講和条約締結60年という歴史の節目に際した3カ年計画『プロジェクトJAPAN‐未来へのプレーバック』で、「歴史は決して、一国だけの歴史で終わらない」と書いている。
その通りである。であれば、同プロジェクトの一環であるこのドラマが画面の裏側で、生け贄に供されたものたちを再び鞭打つものであることに思いが至らねばならない。
「未来を見通す鍵は、歴史の中に隠されている」とNHKは言う。その鍵がなぜ、『坂の上の雲』なのか。このスペシャルドラマは、3部構成になっており、第1部はすでに昨秋放映された。第3部は来年だ。ロシアとの開戦、主人公の出征へと展開する第2部からは、その問題性が鮮明になるだろう。
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旧憲法と「統帥権独立」
自己破滅の要因育つ 昭和軍部の暴走はここから
「まことに小さな国が開化期を迎えようとしている」という語りで始まる小説『坂の上の雲』は、陸軍騎馬少将・好古、海軍参謀・真之という秋山兄弟の青少年期から、大国ロシアとの戦争を勝利に導くまでの半生を描いた英雄譚である。
坂の上にわき上がる雲を目指して駆け登る青年群像に、明治日本を象徴させた作品で、68年春から72年夏まで産経新聞に連載され、その後単行本となった。世界有数の経済大国にまで駆け上ってきた日本の、その主人公たる日本人に幅広い支持を得た。
連載が開始される10年前、『明治天皇と日露大戦争』(57年)、『天皇・皇后と日清戦争』(58年)、『明治大帝と乃木将軍』(59年)の映画3部作が上映され人気を博したことがある。52年4月に発効した講和条約で主権を回復した日本は、重石がとれたかのように、日本の正当性を「栄光の明治」を通して主張し始めたのだ。
明治天皇は冷静に情勢を分析し、果断な決断を行うだけでなく、自国民はもちろん敵国捕虜にも温かく接する慈悲深い人物に描かれている。司馬がこの映画に影響を受けなかったわけがない。ただ、『坂の上の雲』は、秋山兄弟を中心とした青年群像に焦点を合わせ、企業戦士と呼ばれた日本の働き手たちの姿が投影されていただけに、より身近な共感を呼んだ。
当然のことに、連載中から映像化のオファーが相次いでいた。しかし司馬は、①戦争賛美と誤解される②作品のスケールを描き切れない‐この二つを理由に固辞していたという。
日本の方向性模索の糧に?
NHKは映像化について、「この40年の時代の流れを見るとCGを始めとする映像表現の進化は目覚ましい」として、②の技術面はクリアされたとしている。だが、①の固辞理由については言及せず、こう強調している。
「今でもこの作品の輝きは変わっていない。むしろ現代の状況がもっとこの作品をしっかり読み解くことを要求しているのではないか。世界は新しい構図の中で動き、日本もこれからの方向性を模索している」
ただ、NHKも抜け目はない、と言っておくべきだろう。司馬が戦争を賛美していない証であるかのように、「昭和の軍隊」を嫌悪していたと紹介することを忘れていない。
「栃木県佐野の戦車部隊で敗戦を迎えようとしていた司馬さんは、避難してくる人々を轢き殺して戦車を進めよという隊長の言を聞き『国民を守るべき軍隊が国民を轢き殺して行けという。なぜ日本という国はこんな情けない国になってしまったのだろうか』と想い、小説を志したそうです」
そう、明治維新を徹底した革命と規定する司馬は、明治はよかった、悪いのは昭和の軍人であるとたびたび言い、昭和ひとけたから20年までの日本は日本ではない、とまで言い切っている(『この国のかたち』)。
司馬の問題点は、昭和の軍部を指弾する反動のように、明治をたたえる歴史観にある。そして、『坂の上の雲』の問題性はまさに、その歴史観が如実に反映されているところにある。
革命とは一般に、被支配階層が支配階層にとって代わり、旧秩序を瓦解させて新秩序を打ち立てることを言うはずである。ところが明治維新は、旧支配層自らが上から一定限のブルジョア的改革を行い、資本主義社会建設への起点をつくったものであって、革命と称し得るものではない。
明治維新はむしろ、徳川幕藩体制を揺さぶり始めた農・工・商のエネルギーがブルジョア革命につながる可能性を摘み取り、天皇制絶対国家の誕生へと軌道を捻じ曲げるものであったと言うべきだ。その思潮を集大成したのが、1899年(明治22)に発布された、明治憲法とも呼ばれる大日本帝国憲法である。
政府や議会の介入阻まれる
明治憲法の最大の問題点は、天皇を雲上人にまつりあげて大権を集中させ、なおかつ統帥権を独立させたことだ。アジア諸民族を蹂躙、日本に壊滅的な打撃をもたらす、司馬が嫌悪してはばからない昭和軍部の独走はここから始まった。
統帥権とは、陸海軍の組織・編成、人事・予算など行政事務を司る軍政権、戦略を定め軍事作戦を立案して指揮・命令する軍令権で構成された軍の最高指揮権だ。軍政権は陸・海軍大臣が、軍令権は統帥部(陸軍参謀総長、海軍軍令部総長)が輔弼する仕組みであった。だが、統帥部が軍機・軍令事項を天皇に直接上奏する帷幄上奏(いあくじょうそう)によって、政府や議会の介入が阻まれていく。
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「建武の中興」も維新も
天皇統治の脆弱性示す ビジョン欠き「征韓論」に傾斜
明治憲法はまさに、諸悪の根源である。だが、統帥権を独立させた当時の権力中枢の考えを斟酌し、やむを得なかったとする次のような見解があることにも触れておこう。
徳川体制が武力を持つ各藩からなる連邦国家であり、統一国家の運営に未熟な当時の指導層が行政権と武力をともに握れば、再び幕府が生まれる危険があった。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して天皇親政を復活させた建武の中興は、軍事に無知な公卿が戦に介入したゆえに失敗したとの逸話が知られていた。維新の主体となった指導部中枢は、政治と軍事をともに掌握しており、統帥権独立が軍部の独走を招くことを想定できなかった。
建武の中興と、徳川幕府を退けて王政復古を実現した維新とは、共通する側面がある。天皇を元首に戴く統治体制をつくるために武力を用い、その武力を握ったものがそのまま指導中枢になったことが、発症するまでの期間に長短こそあれ、結局は破滅を招く原因になったことも似通っている。
建武の中興は2年半で潰え、明治憲法体制は45年ほどで瓦解した。前者は離反した武力集団によって、後者は米国など外部勢力によった。スケールは異なっても、ともに当初から内部崩壊要因を抱えていた。天皇統治が日本の伝統であるとして、その体制をつくるのに武力を用いるべきではなかった、という教訓が導き出せるはずだ。
王政復古を唱えたところで、3万石の天皇と緒家全7万石の公家が京都から江戸に遷宮したに過ぎず、権勢が徳川から公家と薩長藩閥に移っただけのことである。当時の民衆は、錦の御旗の官軍が必ずしも正当ではないことを知っており、各地で期待が裏切られたことも相まって、新政府非難を拡大させていた。
維新主体勢力は、倒幕でこそ結束したものの、その後の展望があったわけではなく、分裂含みの権力争いに転じていた。押し寄せる民衆の不安・不満をかわすには、耳目を外に向けさせることだ。維新から間がなく、国家として未熟であるにもかかわらず、日本が朝鮮にこだわり続けた理由はそこにある。
明治維新の先駆的イデオローグとされる吉田松陰は、狂的な尊皇攘夷を唱えながら、軍備を固めて朝鮮はもとより、北はカムチャツカ、オホーツクから南は琉球、台湾、ルソン諸島まで掠め取ることを主張した。開明的とされた橋本左内も、沿海州、満州、朝鮮からアメリカ本土、インドまで領することが日本の安定に必要だと説いた。世界を掌中にすべしと極論する論者さえいた。
中央集権化へ大国主義活用
このような妄想ともいうべき幕末思想は、明治新政府になって征韓論に集約されて行く。西郷隆盛が不満を吸収し、国論統一を図るべく征韓論を唱えたのは1873年(明治6)。西郷はこれに敗れて野に下り、やがて憤死(西南戦争)したものの、その発想は根強く残った。
征韓論を退けたのは、1871年11月から2年近くにわたって欧米諸国を巡った使節団の団長、岩倉具視である。諸国の力強さに驚嘆した彼は、内務優先を主唱した。しかし、指導部中枢は幕末思想が膨らませた大国主義を排したのではなく、民権運動を抑圧して国内統一、中央主権確立の梃子にしていく。それを可能にしたのが明治憲法である。
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「栄光の時代」だったのか
指導層育成に失敗 「武」もてあそぶ気風強く
明治・大正・昭和と続いた日本だが、厳密に言えば、明治憲法の下にあった敗戦までは「明治体制国家」である。研究者の間では、その「明治体制国家」を主として、国家指導層の資質の著しい違いから、日露戦争直後の明治末期までを前半期、以後敗戦までを後半期と分けたがる傾向が強い。
後半期の体たらくに比べて前半期は、国際的な判断力や決断力に優れた覇気ある指導層の下で、アジアで唯一近代化に成功し、強国となった栄光の時代というわけだ。司馬も当然この考えに与する。昭和の戦争を無謀な侵略戦争と批判する日本人でも、日清・日露の両戦争は正当だったと信じる人が多い。
それは、都合のよい局面だけを引き出し、それをつなぎ合わせて培った観点と言うべきだろう。大局的な見地から見た実際の経過は、まるで異なる。
▽「是が非でも」の決意で日清戦争を起こし、「朝鮮の独立・改革」という名分の範囲を大幅に超えて戦線を広げ、莫大な賠償金と利権をせしめて中国の弱体化を加速させ
▽ロシアに漁夫の利を与えて中国に強固な足場を築かせるばかりか、日英同盟に基づく包囲網を構成して逆にロシアの脅威を増大させ
▽日露戦争に勝利したものの復讐戦を恐れ、血であがなった利権を守るためにと朝鮮を植民地化し、利益線を大陸の奥深くに拡大していった。その後は太平洋戦争まで一瀉千里であった。
横河電機や横河ブリッジホールディングスなどの企業グループの創業者で、耐震建築を生むなど日本の近代建築の先駆者として今も輝く横河民輔(1864〜1945年)は、自著『是の如く信ず』のなかで、「日清日露の戦争がなければ我々は数倍も豊かになっていた」と言ってはばからない。
そこで横河は、日清・日露戦争に費やした財貨を自分に任せれば、侵略する必要も侵略される恐れもない豊かな国にして見せたと断言する。さらに、武威こそ国家発展の基本と錯覚した当時の指導層は、「尚武」とは似て非なる「弄武」、軍事力をもてあそんだに過ぎないと指弾する。
徳川の遺産を蕩尽した明治
司馬はよく、昭和の軍人が明治の遺産を食い潰した、と語った。しかし実際は、明治が徳川時代の遺産を食い潰したのである。
多くの日本人が「栄光の時代」と受けとめる「明治体制国家」の前半期は、徳川時代生まれの指導者、民衆によって築かれた。明治になって生まれた人々は、「失敗の時代」である後半期を構成した。対米英開戦時の首相・東条英機はその典型であろう。1884年(明治17)生まれの彼は、まさしく明治時代の秀才であった。
明治期を賛美する立場からも、日露戦争後に国力が急速に増進した実態と明治憲法が大きく乖離したにもかかわらず、君主によって制定され、国民に与えられた欽定憲法を修正できないまま、指導層の暴走を許したことが見て取れよう。「栄光の明治」は、国民意識の改革と指導層の育成に明らかに失敗した。
「尚武」ならぬ「弄武」の気風がそうさせたのである。
(2010.9.29 民団新聞)