祖国とともに地位向上を追求
在日同胞の生活・精神の資産に
若い世代の皆さんは民団を「ちょっととっつきにくい」と感じているかな? 「民団」という名称からして古色蒼然、保守・右翼っぽい。今どき「団」なんて応援団くらいだし〜とか。なんだかんだ、近寄りがたいイメージを持たれているようで。先だっての母国夏季研修に、支団長をしているアボジに勧められて参加したある女子高校生は、民団を「在日同胞という単語で集まり、傷のなめ合いをする団体」と考えていたとか。まっ、印象は様々だよね。でも、かなりいい仕事してるんだ。ルーズな面もあるけど、その分、人間味もあって、けっこう奥行きがあるんだな〜これが。創立65周年を迎えた民団のこと、一緒に考えて見ませんか。しばし、お付き合いを。
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名称「民団」は古臭い?
帰属意識高め今や愛称
略称が通称にいつしか定着
耳慣れていなければ確かに、「ぜひお近づきに」とはなりにくい。もっとスマートな名前はないか、せめて「協会」とか「連合会」とか、「会」で締めくくる名称を、といった声もあり、公募を求める動きもあった。だが、略称が通称に進化し、いつしか愛称として定着した。
現在の正式名称は在日本大韓民国民団。民団を平たく言えば、在日韓国国「民」の「団」体ということになる。在日本朝鮮人総連合会の略称「総連」は、労働組合団体に同様の名称が多く、2文字だけでそれと特定されることはない。
その点「民団」は、すぐそれと分かる。これも一つの魅力かな?
私たち民族は、近代への黎明期から植民地時代、韓半島内外でいくつもの独立・啓蒙団体をつくった。有名な独立協会、大韓自強会、西北学会、新幹会など「会」も多く、耕学社など「社」も散見される。ちなみに、民団初代団長である朴烈が組織した結社は不逞社(1923年東京)だった。
さて、重光団(1911年満州)、光復団(1913年慶尚北道)、興士団(1913年ロサンゼルス)、扶民団(1912年満州)など「団」も少なくない。私たち民族が「団」を好んでいたことが分かる。
在日同胞に縁が深い例としては、3・1独立運動の導火線となった2・8独立宣言の宣布主体がある。時限組織ではあるが、「在日本東京朝鮮青年独立団」を名乗った。
民団の母体となった建青(朝鮮建国促進青年同盟=45年11月)と建同(新朝鮮建設同盟=46年1月)はともに「同盟」だ。しかし、これは継承されなかった。
「団」は辞書に、「同じ目的をもって集まったひとのかたまり。また、その組織」とある。「共通の目的を達成するため、同じ行動を取ることを約束する」同盟より、何となく緩やかで、素朴な印象すらある。
事業によっては最近、「MINDAN」(文化賞など)とか「みんだん」(生活相談センター)を公式ロゴにすることもある。が、これも逆に言えば名称へのこだわりの現れかも。
愛称「民団」は、団員たちの帰属意識のみなもと(源)にもなっているらしい。自分を「民団人」と称し、同志的連帯感を込めて仲間を「民団サラム」と呼んだりする。
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建青本部前で朴烈氏を囲む青年たち |
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民団はなぜ生まれたか
民族共同体を守れ…新たな隷属化に危機感
まずは、「在留同胞全員が帰国するまでの自治機関」が必要だったから。だがその裏には、在留同胞を過激な日本革命運動に動員し、自己破滅を招く事態を阻止しなければならない、との切羽詰まった事情があった。
1945年8月15日の祖国解放の時点で、在留同胞はざっと200万人。翌46年3月までに帰国者は約140万人に及んだ。その後、帰国者は激減し、残留60万人が今日の同胞社会の基礎となった。
解放直後の同胞たちは、太極旗を打ち振りチャンゴを叩き、マッコリを飲んで歓喜しながらも、秩序だった帰国体制が確立し、祖国での新生活に臨む態勢が整うまで、自分たちの命と生活を自ら守ろうと一斉に動いた。
日本各地の集団居住地で同胞団体が自然発生的に誕生し、その数は全国で300余。これが一本化に向かい、45年10月、思想・信条、主義・主張を超える同胞の総結集体、朝連(在日朝鮮人連盟)が結成された。民団が毎年、光復節中央式典を開く日比谷公会堂に5000人が参じた。ここまではよかった。
誕生した朝連乗っ取り図る
大会2日目、左派系青年が民族派指導者を暴行・監禁し、共産主義勢力が朝連指導部を掌握する。主要ポストに共産主義者を配置した後、46年初頭から政治色を鮮明にし、47年に入って共産主義運動を本格化する。その司令塔になったのが日本共産党朝鮮人部(45年12月新設=部長金天海。後に民族対策部)だ。
朝鮮人部副部長で朝連結成の中心メンバーだった金斗鎔は、日本共産党機関誌「前衛」(46年2月創刊号)に掲載した論文「日本における朝鮮人問題」で、「真に朝連の運動を全国的な、有機的な運動として大衆的な基礎を確立し、その運動の方向を日本の人民解放闘争に結びつけ/われわれ自身及び全日本の人民を圧迫し、搾取してきたところの天皇制を打倒しなければ、われわれ自身の解放があり得ない」と主張した。
その後も、同種の論文を立て続けに発表、同胞を天皇制廃止・反動政府打倒の過激な「人民解放闘争」に駆り立てていった金斗鎔は、「前衛」47年5月号に論文「朝鮮人運動の正しい発展のために」を発表、民族問題は階級闘争に従属しなければならず、両者が矛盾するときには階級的利益のために民族的利益を捨てなければならない、とまで断定するに至る。
信じられない? その通り。でも当時は、軍国日本時代への反動で革新・左派勢力が強く、朝連に結集した同胞にも解放・新時代という高揚感があった。同胞の日本共産党員は46年2月で約1000人、48年8月で約3700人とされた。日本ではまだ、共産主義は新鮮に映り、この思潮に未来が託せると思えた時代のことである。
人格の向上や人材育成訴え
しかし、全同胞が熱病にかかっていたわけではない。いっときの激情に左右されず大局を冷静に判断し、同胞共同体を守るための民生事業と新祖国建設の担い手たろうとする集団があった。民団の母体となった建青と建同を中心に結束した同胞たちだ。
結成宣言で民団は、「政治や思想運動に走って主義主張のみを叫ぶときでもなくまた場所でもない」と指摘し、極度に逼迫する同胞の生活に触れ、生業・生活必需品・住宅の確保を優先課題に掲げた。同胞に対しては道義・法令を遵守し、国際人としての人格向上を、また、祖国の健全な発展に資するべく、青年・婦人運動を通じて人材育成を、と訴えた。
一方は日本革命、もう一方は民生と祖国建設。ベクトルのなんと極端に違うことか。民団新聞は創刊号(47年2月)に、「あらゆる能力と時間を政治的に動員され、他国の内閣打倒を叫んだ挙句、犯罪者として処断されるのはあまりに情けない」と書いた。穏当な表現ながら、嘆きを通り越した憤りが込められている。
事実この時期、同胞の貴重な人的・物的資源が日本の共産主義革命に動員され、民族的主体性を喪失させるばかりか、日本人への新たな隷属を体制化させる危機的な状況にあったことは、繰り返し指摘しておくべきだろう。
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自ら韓国国民になった
妨害と闘い獲得…自由・民主の国家を求めて
政府公認受け画期的再出発
民団には、本国と海外を問わず韓民族社会のどこにも見られない、際立った特性がある。自ら集団的に、「大韓民国国民」になっていったことがそうだ。韓国籍が有利だから? 魅力があるから? そうではなかった。
大韓民国樹立から間がない48年10月、民団は政府から公認状を授与されたのを受け、名称を「在日朝鮮居留民団」から「在日本大韓民国居留民団」に改称し、「画期的な再出発」を宣言した。
言うまでもなく、民団の結成は政府樹立に先立つこと1年8カ月。独立国家の形態も理念も判然としない時点だった。当然ながら、民団は韓国政府の肝いりで生まれたわけでも、系列化されたわけでもない。
民団に結集した同胞たちはあくまで、自由で民主主義的な体制の国家を求めてきたのであり、その結実として大韓民国の建国理念を支持したのだ。韓国国籍も自動的に与えられたのではなく、自ら獲得していった。
日本政府はサンフランシスコ講和条約が発効(52年4月)するまで、同胞を「日本国籍」とする半面で、47年には外国人登録令を施行して同胞を当分は外国人とし、登録上の国籍欄は暫定的に「朝鮮」とした。「まだ日本人」「すでに外国人」の巧妙な使い分けだった。石原慎太郎都知事らがたまに、「第3国人」という言葉を使う。その発想の源はここら辺にある。
それはさておく。民団は韓国政府が「在外国民登録実施令」を公布(49年8月)するのをまって、国民登録事業、つまり「朝鮮」籍から韓国籍への切り替え運動を展開した。
在日同胞社会の勢力分布は、GHQ(連合国軍総司令部)の49年12月の報告によれば、朝連傘下が7割の42万人、民団傘下は3割の18万人とされた。奮闘にもかかわらず、民団の劣勢はあまりにも明らかだった。
韓国籍とは、朝連(49年9月に解散命令)と、それを母体にした民戦(在日朝鮮統一民主主義戦線=50年8月)、国際共産主義運動の方針転換によってその跡を継いだ総連(55年5月)の圧迫・妨害と闘いながら選び、手にするものだったことを念頭において欲しい。
この運動は今日、民団史においても、韓日協定締結後の永住権申請促進運動に比べて影が薄い感がある。だが、総連の妨害策動にもかかわらず、35万人超の申請者を獲得し、勢力図を塗り替える土台となったことはしっかり記憶すべきだ。
では、韓国籍を取れば何かいいことがあったのか。当時もその後も長い間、これと言う実利はなかったと言っていい。
韓国の経済的な困窮は続き、国力は60年代中盤までは確実に、北韓に遅れをとっていた。日本では政権こそ保守政党が握っていたものの、労働者団体や市民組織は革新系が強く、朝連‐民戦‐総連はこれらのバックアップを受けたのに対し、民団は一方的に白眼視された。
マスコミも同様だった。韓日会談は13年間も続き、その間、いわゆる平和ラインで日本漁船が拿捕されればなおさら、そうでなくとも韓国は腹黒く狡猾で、野蛮に描かれてきた。それに比べ、「千里馬運動の国、北朝鮮」は随分と称賛されていたものだ。
「北」賛美の嵐立ち向かって
その流れはしばらく変わらず、北韓・総連による日本経由の対韓破壊・攪乱工作ですら、韓国のデッチ上げとするキャンペーンが張られた。金大中拉致事件(73年)、文世光事件(74年)をとらえての日本世論の韓国バッシングは、最近の北韓報道より数段激しいものだった。
最近、総連を離脱した同胞たちから「日本のマスコミが総連や北を増長させた罪は大きい」とよく聞かされる。「総連の糸目をつけない接待工作に籠絡される一方で、ちょっとでも批判しようものなら凄まじい抗議を受けることに怯えた。日本人拉致事件が拡大したことだって、マスコミが北を礼賛してその実態に煙幕を張ったことと無縁ではない」との指摘さえあった。
南北対立のなかで劣勢にあり、経済的な困窮と混乱の続く韓国に明るい展望は描けず、韓国の在外国民であることの魅力などなにもないような時代から、「祖国大韓民国と一体」であろうとした、そういう同胞たちの結集体としての民団の歴史は、繰り返し反芻する価値がある、と思うがどうだろう。
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民団の公式行事では必ず国民儀礼を行う |
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綱領の「国是遵守」とは
「国民と一体」貫く…韓国の憲法秩序に立って
民団は綱領の筆頭で「われわれは大韓民国の国是を遵守する」と謳っている。この「国是」とはなんだろう。概念をめぐって論議がなかったわけではないが、明確な統一見解があるわけではない。「えっ? それでいいの?」という声も聞こえてきそうだ。
だが、民団は「明文化しなくともいい」という考え方に立ってきた。創団時から宣言・綱領によって理念・目的を明らかにしてきた民団は、各種の運動や事業を通じてそれを実体化し、歴史によっても検証されてきた。その過程で自ずと概念化され、いわば慣習法(国家による強制がなくとも、人々に法として意識され、守られているもの。不文法の典型)になっている、という立場である。
どう概念化されてきたのか。民団理念を集約し、第6次まで代を重ねた宣言を中心に検証するのが早道だろう。
「国是遵守」が掲げられたのは言うまでもなく、大韓民国樹立後の48年10月に採択された第2次宣言からだ。以降、現行の第6次宣言まで一貫して筆頭の位置にある。だが、曲折はあった。
李承晩政権を倒した4・19学生革命を受けての第3次宣言(60年5月)は、「建国途上にあった祖国に対する無限の愛国心と、その発展を念願するあまり、国政に対する正否の判断を怠ってきた」ことを率直に反省しつつ、在日同胞政策については是々非々を堅持し、国内政策においても国憲に背馳する施策には可否の態度をいっそう明確にすることを表明した。
第6次宣言で反共理念削除
この第3次宣言ではまた、「朝鮮人連盟(現朝総連)との反共闘争に全力を傾注してきた」と初めて明記した。「反共」という文言が登場したのである。韓日協定締結後の第4次宣言(66年6月)、創団30周年を期しての第5次宣言(76年3月)とも、「反共理念のもとに全僑胞を包摂する」ことを唱えた。
しかし、創団50周年に際して採択(96年3月)された第6次宣言では削除され、その部分は「在日同胞社会が不幸な歴史の共有者であり運命共同体であることを認識し、国籍と所属を超えた幅広い交流。和合により同質性を回復…」に置き換わった。
さらに、祖国統一問題についても、「人類共通の良識である自由民主主義の理念のもと平和的・自主的に達成されるべきであるとの方針を堅持」することを謳い、統一祖国の国家像について初めて、「自由民主主義の理念」に基づかねばならないことを表明した。
国力を充実させた大韓民国が88ソウル五輪以降、旧東側諸国と国交を結ぶ北方外交を成功させ、90年には東西冷戦構造の崩壊を決定づけたドイツ統一があった。第6次宣言は、祖国の躍進と国際的な潮流を背景に、民団の自負心の高まりを映し出したものだ。
第4次宣言から30年間有効だった「反共理念のもとに」との文言から、内外で過去の一定期間、「国是」を「反共」と理解する向きが多かった。東西冷戦、南北対決、総連との対峙など、現実が作用したこともある。
だが、共産主義がなければ存在しない「反共」は、理念とは言えず、もちろん「国是」になり得ようもない。大韓民国の建国理念は、自由主義・民主主義・市場経済主義に則ったものであって、北韓のアンチとして定立されたわけではない。
民団にとって、先に見た国民登録事業は、「建国大統領・李承晩支持」の次元にあったのではなく、同胞たちの(ほとんどが韓半島南部出身であるがゆえの)郷愁的、(自分たちが打ち立てた民団の)理念的な帰属意識と国籍とを一致させ、国づくりに本国国民と一体になろうとする意思の現れであり、自己確認をともなうものだった。
「大韓民国の国是遵守」も「大韓民国と一体」(第6次宣言)も、最大公約数としては、韓国の立場に立つという意思の表明である。韓国政府と民団の関係は、曲折や濃淡があったにせよ、原則としてはあくまで機関と機関のそれであった。時の政権に追従するものではない。
民団は、3・1独立運動の精神を体現した臨時政府の法統および4・19民主理念を継承する大韓民国の憲法秩序のもとで、自らの意思によって国政の在り方を決める韓国国民と一体であろうとしてきたのだ。「国是遵守」とはまさに、そのことを指していると受けとめるべきだろう。
朝連・民戦時代は日本共産党に、総連になってからは朝鮮労働党に、その指揮下に隷属した系譜と民団とは、決定的に異なる。
祖国の浮上で浮かぶ瀬あり
「大韓民国と一体」とは、祖国が浮上してこそ自分たちの浮かぶ瀬もある、との思いの発露だ。民団を中心とした在日同胞の本国への貢献は、「漢江の軌跡」を成し遂げるうえで大きな役割を果たした。経済発展の成果のうえに、韓国主導による統一祖国を展望したのである。
韓日の国交正常化以降、在日同胞の本国投資は中小企業と輸出を振興する起爆剤となったのをはじめ、とくに農漁村部の道路・橋梁、上下水道、電力供給、学校・病院など社会資本の整備に大きな役割を果たし、70年代初頭からのあの有名なセマウル運動につながった。70年代だけでも、在日同胞の本国投資は約3000億円と推算されている。
大使館をはじめ主要都市に設置された駐日公館のうち、9カ所の建設費(土地・建物)に対する拠出金は、2002年の時価換算で約1610億円と見積もられた。その後も、新韓銀行の設立、100億円を超すソウル五輪支援、97年IMF外貨危機に際しての本国送金運動など、本国貢献は枚挙にいとまがない。
こうした事例は、国籍差別による諸々の不利益を受けながらも、なお多くの同胞が居住国の国籍取得を拒否し、むしろ国籍差別を撤廃する方向へ力量を向かわせてきたことと合わせて、他の海外同胞社会には見られない。個人の努力が自ずと国の発展につながった本国国民とも違って、在日同胞の場合はより意思的な行為だった。
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在日社会の特性と民団
強めたい求心力…相克なき時代を、いつかは
現在、海外同胞は750万人とも言われ、世界各地に同胞コミュニティーが形成されている。なかでも規模が大きく、歴史もあるのはロシア、中国、米国だ。
ロシア同胞社会は、朝鮮北部で1811〜2年に起きた洪景来の乱に端を発した流民に始まる。中国への流出は1880年代の一連の大凶作によって本格化した。在米同胞社会は大韓帝国時代の1903年からの2年間で7000人に達した移民政策に発し、解放後に急増した。
自ずと強めた共同体の意識
この3国のうち中国、ロシアも植民地時代に流入人口を大幅に増やした。しかし、ほとんど全的に植民地支配を起点に形成されたのは、在日同胞社会だけだ。解放後に、140万人という大量の帰国者が出たのも、強制・半強制的に渡日した経緯のゆえである。
在露同胞は帝政時代、帰化者と非帰化者の激しい対立があり、革命期には赤軍、白軍に分かれての殺戮戦も経験した。在中同胞は日帝の中国侵略時代を生き抜く過程で、民族派、親中派、親日派などに分裂、それに対応する国籍をもった。これは国共内戦時、中国共産党とともに親日派残党、親国民政府派、親李承晩派を駆逐することにつながった。
在日社会には植民地時代、このような同族間の相克がなかった。軍国日本は、同胞を「日本人」とする一方で実際は、「非日本人」として抑圧・拒絶し続けた。同胞たちは極力結束して身を守るほかなく、相互扶助の共同体意識を自ずと強めてきた。
だからこそ、解放直後の早い時期に大同団結が可能だったのだ。なおかつ、解放後も居住国の国籍取得をよしとせず、差別・迫害と闘い続けたのも在日同胞社会だけである。
歴史に「もし」は禁句だけれど、朝連が共産主義者に牛耳られていなかったら? 思想・信条によって分裂しても、せめて同族団体同士として緩やかな連合が維持されていたら?
こんな問いかけがあってもいい。なぜなら、苦難期に育んだせっかくの共同体をもちながら、祖国での左右対立、その後の南北分断を背景に、民団、総連という2大組織の葛藤に彩られる歴史をつづったのもまた、在日社会だけだからだ。
その根底には祖国を失い、宗主国で虐げられ続けた歴史を背景に、祖国とともに自らも向上したいとの熱情があった。それぞれが信じる「祖国」が異なっていく以前の、在日同胞としての熱情に思いをはせることは、今後の同胞社会を考えるうえで重要な意味をもつ。
先の問いかけは、過去を悔いるためではなく、未来を見据えるためのもと受けとめて欲しい。
民団の現行第6次宣言は前述したように、「在日同胞社会が不幸な歴史の共有者であり運命共同体であることを認識」し、「同質性回復」に努めると明記している。
民団は民族共同体を基礎とする生活者団体であり、多様化する同胞社会を統合する指導母体であることを自負できる唯一の団体だ。それにふさわしい力量を養っていく使命がある。
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民団社会で毎年、成人を祝う式典が開かれている |
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時代を担う皆さんへ
「継続は力」これからも
自画自賛ばかり書き連ねていない? なのに、まだ言うの? いや、書きたいことは際限なくあるけれど、この程度で今回は終わりです。最後にひと言だけ、若い世代の皆さんにメッセージをおくります。
民団の今日を築き上げたのは特定の指導者でもなければ、特定のグループでもありません。全国各地で次々に登場した現場の組織指導者であり、彼らを支えた団員たちです。つまり皆さんの曾祖父母、祖父母、アボジ・オモニたちです。
したがって、民団の功労者は数知れません。特定個人の独裁を許さず、特定グループの専横を看過せず、ときには本国政府サイドの干渉をもはねのけ、ふつうの生活者である団員たち自身の意思決定によって運営してきたのです。
思想・信条が多様で決して一枚岩ではなかったので、侃々諤々(かんかんがくがく)の論議や内部抗争にエネルギーを費やすこともありました。
6・25韓国戦争の超激動期にあったにもかかわらず、51年6月から約2年間、執行部の長であり民団を代表する団長を3人にする「団長団制度」を続けたのも、民団らしい体質の現れでしょう。
加えて、プロフェッショナルな組織人が少なかったために、組織運営のルーズさも目立ち、決して効率性のある組織とは言えませんでした。しかしそこは、継続は力なり、です。
特殊な歴史的背景がゆえに、社会的な弱者の立場に追いやられてきた在日同胞の生活を守るために、民団は自ずと準政府機関あるいは公共団体的な性格を帯びるようになりました。
ただし、莫大な財政資源を必要とするにもかかわらず、それを国や公共団体のように税収で賄うこともできなければ、大量の人的動員を必要とする事業だからと言って、強制力を行使できるわけでもありません。
有給の専従者が実務の要になってはいますが、運営の主体は身銭を切って活動するボランティアの皆さんです。同胞のライフサイクルに即した民生活動をはじめ、民団には多様な運動・事業があります。世界的に見ても、最も伝統と実績のあるNGO(非政府組織)の一つと言えるのです。
運営体制もしっかり整備されてき、団員の意思が中央指導部まで届く仕組みや相互点検の機能が働いています。百家争鳴、談論風発の気風が強く、統一意思の形成には時間がかかっても、いったん決定されたことは重みをもち、背くことは許されません。
民団にはまた、懐の深さがあります。かつての敵対勢力であろうと、民団を軽視し批判的であったグループであろうと、民団に馳せ参じてきました。歴史的に見れば民団とは、それによって幅を広げ、新たなエネルギーを吸収してきた組織と言えましょう。
民団はこれからも、団員総体が所有する組織としての柔軟性を失わず、新たな時代的要請にも応えていけるでしょう。
民団の扉は見かけより開きやすいですよ。まずはノックをして下さい。
(2011.10.5 民団新聞)