教育に情熱と資産注ぐ
「無窮花章を授与された圭訓さんはどんな人?」。民団の7・8代中央団長であるだけでなく、白頭学院(大阪=現建国幼・小・中・高)の創立者であり、故郷・済州道に朝天中学校を設立した人物だと聞かされてもピンとはこないかも知れない。確かに、現在の同胞社会では無名といっていい存在だ。しかしそれは、忘れ去られていただけのこと。今回の、故人としては異例とも言える受章は、「決して忘れてはならない人」、「改めて顕彰すべき人」であることを示した。
白頭学院・朝天中学創立、民団中央団長も
故・圭訓氏(1906〜2000)は1946年3月、白頭学院と朝天中学校を創立したのに続き、周囲からの強い要望によって、創団から間がなく混乱続きだった民団の中央団長(1949年6月〜50年3月)に就任した。それに先立っては、大枚の私財を投じて大韓民国の駐日代表部を東京・銀座一等地の著名ビルに、公使館邸を目黒に設けている。
しかし、傾きつつあった自身の事業の再興が火急の課題となり、任期途中で中央団長から退く。結局、事業の再建を果たせず、51年夏頃を最後に白頭学院に対する支援もかなわなくなった。隠遁生活に徹しつつ、それでも終生、民族教育振興への情熱を失わなかったという。
在日同胞社会におけるさんの働きは、一陣の風に過ぎなかった、かのようにも見える。しかし、その働きは尋常ではない覚悟と才覚に基づいたものであった。
さんが白頭学院の母体となる白頭同志会を結成したのは1945年9月。兵庫県下でゴム工場を経営していた戦争末期、共産主義者だと密告され、憲兵隊によって厳しい取り調べを受けた。これが大きな契機になる。
毅然とした態度が見込まれたのだろう、釈放される際、憲兵隊長から「若い朝鮮人徴用工が県下に2000人ほどいる。脅しても働かず始末に困っている。何とか面倒を見て欲しい」と頼まれた。山林事業も手がけていたさんは、徴用工を雇用するなど、あれこれ面倒を見ているうちに解放を迎えた。
旧徴用工たちは帰国へと心をはやらせるがその手段がない。彼らのなかには専門学校や旧制中学出身者も多く、当時としては教育レベルが高かった。70人ほどが合宿していたさんの自宅で同志会が誕生する。「団結し」「祖国と民族を愛し」「国家再建の礎となる」。この3つを綱領に掲げ、仲間たちの黒髪が白くなっても永遠に団結する意味を込めて「白頭」と命名した。
知識・技能を身につけ、民族財産を蓄積する絶好機‐。同志会の活力は凄まじく、レコード会社、映画会社を経営し、輸出入や帰国事業のための船舶会社も経営、会員は6500人にも膨らんだ。一方では、戦災者援護事業を51年まで6年間続けてもいる。宿泊と食事を多いときで1日600人に提供した。
白頭学院は、建国工業学校、建国高等女学校の名で同志会の文化事業の一環として出発し、朝天中学校は日本で設計され、資材も日本から船便で送られたと聞けば、その思いと実力のほどが偲ばれよう。
さんは、教育者だった父親が失踪し、9歳のときに母親も失った。引き取られた先の母親の実家も破産。二度の家庭崩壊を味わっている。教育者を夢見て師範学校を目指したが学費がなく、働きながら学校に行こうと渡日した。長年の思いを解放後の短い期間で一挙に結実させたのだ。
圭訓顕彰事業会の李正林会長は「埋もれていた歴史に光が当たった」と受章を喜んだ。事業会では、さんの故郷・済州市新村里に記念碑を建てるほか、済州大学に新設される在日同胞センターに「圭訓室」を設け、白頭学院にも胸像を建立する計画という。
(2011.10.19 民団新聞)