ご支援一生忘れません
朴明子
東日本大震災の被災者・朴明子さん(岩手県山田町在住・70)が大震災から1年の11日を前に、支援活動に対する感謝の気持をしたためた一文を、民団岩手本部を通じて本紙に寄稿した。
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人生には、本当に何が起きるか分かりません。でもこうした人生から、私達はどこにも逃げ道はないと言う事を思い知らされました。あれほどの惨状から生き残った者には、生きて行く責任があるのだとつくづく思います。
沢山の方々が、沢山の知人が波に呑まれていきました。あの時以来、神経からなのか手はふるえ、吐いたり下痢が続いたり、そうした中、民団本部の団長さんをはじめ、2台、3台と車を連ねて支援物資をいっぱい積んで向かって来て下さったあの光景!!
恐らく一生、忘れる事はないと思います。
「亡き父と母が私たちを心配して、帰ってきてくれた!!」。そんな思いでした。子供の頃、父が1カ月に2度、3度と盛岡に足を運ぶたびに、7人の子供9人家族の日々の中、母は父に渡す汽車賃に本当に苦労していました。
それを長女である私は、病弱の母の苦労と家族が日々食うや食わずの中での父の「民団!! 民団!!」と言って出かける行動に、子供心に「何で!!」という気持ちで、ある日「父さんどうして、そんなに民団のことばかり」となじったのです。
民団への情愛
すると父は「明子、これはみんなお前たちの為なんだ」と言い、その当時の総連の事や何やらを私に向かって、色々と話し出したのです。その時、私はよく覚えていますが、スーッと父の言葉が脳に入ったのです。
ずっと田舎での暮らしの中で、ふた言目には「朝鮮人」と言われ、それと今のイジメのはしりではありませんが、本当によく学校に通い通したと思う程、ひどい目に会い続けていましたから、日本人の母を持ち、日本という国で産まれ育ちながらも深い孤独の中で成長して来ました。後ろだては必要なのだ!! しっかりとした団体は絶対必要なのだと、自然と納得して来ました。
共に生き抜く
自分が世帯を持ち、子供を持ち、そして同じ事を子供達に話している自分がいましたが、日々の生活に追われる中で、今回の様な事がまさか、自分の生きているまっただ中で起こって来るとは考えておりませんでした。
何であれ、この人生という道を進まなければなりません。逃げる道は一切ないのですから。そうした中で今回の岩手県本部の皆様をはじめ、他の日本中の各民団、そして本国である大韓民国が、いっせいに被災した私たちに向かって来てくださるではありませんか。私にとっては、あの巨大な津波と同様の信じられない程の衝撃でした。
私達には肉親と同様の沢山の同胞の方々がいて下さる、本国が私達を家族と思っていて下さる。どんな言葉をもっても、今回の感謝は言い尽くせない思いです。
子供達も私達も商売する場所を一切失いました。しかしやっていける、今迄だって何度、転んでは起き上がって来たか。このまま泣いていては、それこそ皆様に、そして本国、大韓民国の国民の皆様にも申し訳ないことです。
主人も86歳になっております。今まで、私たち家族を守り通して来てくれました。現在、山田町には同胞の方は誰一人いらっしゃいません。あんなに沢山いらっしゃったのに。私は子供達と共に生き抜こう、主人を中心にこの道を歩いて行こうと思っております。
本当に重ねての温かい御支援ありがとうございます。心からの感謝を申し上げるのみです。
(2012.3.14 民団新聞)