「精一杯やったつもりでも、振り返れば、やり残したことだけが思い浮かぶ」。呉公太新団長と事務引き継ぎを終えた鄭進前団長は、現在の心境をそう明かし、「新しい執行部を側面からどう支えていくか、今はそれだけを考えたい」と語った。鄭進氏が団長に就任したのは2006年9月。民団は同年に発生した「5・17事態」によって、1970年代初頭以降、最大の危機の中にあった。鄭前団長とともに、2期5年半の在任期間を振り返った。(インタビュー構成)
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前門の虎 後門の狼
悔しさバネに結束…「5・17」後も続いた揺さぶり
私が団長に就任した06年9月21日は、10月3日の創団60周年まで2週間もない時点だった。結局、記念事業らしきものは何もできず、団長談話を出すだけで終わったことが残念でならない。
団勢退潮の中飛躍誓う矢先
当時すでに、団員の減少や財政基盤の劣化など、団勢の退潮が明らかだっただけに、祝賀ムードに浮かれるはずもなかった。06年はだから逆に、歴史と伝統に学びながらもそれに寄りかからず、将来への可能性を見出して新たな飛躍を期す意義深い1年にしなければならなかった。
そこに起きたのが5・17事態だ。これは明らかに、6・15南北共同宣言(2000年)の実践・履行を名分にして、エセ統一方案の南北連邦制を掲げる北韓の、統一戦線組織に民団を組み込もうとする策謀だった。ここには、総連や韓統連だけでなく、韓国内の従北勢力のほか、こともあろうに当時の韓国政府筋もかかわっていた。
5・17勢力がもし、ことを用意周到に進めていたら、民団はどうなっていたか。分裂・瓦解するか、内外の信頼を2度と取り戻せない状況に追い込まれていたのは間違いない。
この危機は幸い、挙団的な力で食い止めることができた。だが、在日同胞の指導団体としての権威や共生の相手である日本社会との信頼関係は大きく損なわれた。しかも、混乱を収拾する過程で、民団は貴重な人力や財力をおびただしく消耗させた。
その悔しさに耐え、組織正常化に向けていざ出発という矢先に、今度は財政面での強い圧力が待っていた。この状況をある常任顧問が「前門の虎、後門の狼」と評したが、まさにその通りだったと思う。
民団の基本財政において、在外国民補助金の占める割合は高い。03年度から05年度分の補助金の会計処理について、中央本部は指導監査当局から厳しい是正要求を受け、財政自立度についても苦言を呈されていた。
一方的に指弾された会計処理については、見解の相違があったと今でも指摘できる。ただ、補助金への依存度についてあれこれと問題視され、圧力や揺さぶりをかけられても、支援を受ける立場からは対応に限界があった。当時の、言いようのない屈辱感は忘れられない。
団勢のジリ貧にともなって広がる深刻な先行き不安、その的確な克服策や納得できる方向性を示せないことへの不満、その上に補助金処理をめぐる誤解と疑心がかぶさっていた。これらが相乗して歴代の中央執行部に対する不信が増幅される状況、これこそが5・17事態の内なる温床になったことを今後とも教訓とすべきだろう。
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新執行部へ残した重荷
負担軽減へ手助けしたい
民団は70年代初頭の危機を克服して以降、韓国の農村近代化のためのセマウル運動支援、これと連動したセ民団運動、総連系同胞のための墓参団事業、青年会の全国化など、内外の課題に果敢に取り組んで、隆盛期を迎えた。80年代も行政差別撤廃運動、ソウル五輪支援事業などを通じて、求心力を高めた。90年代は踊り場とも言える安定期にあった。
それに比べ私の時代は、70年代初頭以後では最も重い荷物を背負った。この5年半の間、私はこういう話をたびたび聞かされた。私を慰めよう、労ろうという思いがあってのことだろう。
重い荷物を背負ったのは確かだ。しかし、それを免罪符とするわけにはいかない。私の団長としての最大の責務は、組織の正常化と強化、内外からの信頼回復、これを急ぎつつ健全な自主財政基盤をつくることだった。これはよく自覚していたつもりだ。
07年5月には財政基盤造成委員会を立ち上げ、その後、収益事業の推進を目的に事業局を新設した。他にもいくつか試みたが、中途半端に終わった。財政問題については期待に応えることができず、新執行部に重い荷物を残してしまった。それをどう軽減するか、直前団長として逃れられない課題だと思っている。
もう一つは、地方参政権だ。獲得運動は正念場にあった。団長就任から1年余り後に、「永住外国人へ地方参政権を! 11・7全国決起大会」(07年。東京・日比谷野外音楽堂)を開催した。過去最高の5000人が結集し、「先送りはもう許せない!」と声を一つにした。
大々的に気勢を上げる一方で、各党党首や有力議員に直接働きかけ、全国団長や中央傘下団体長らが国会議員583人(秘書含む)に一斉陳情(08年2月)もした。
こうした従来型だけでなく、思い切った手法もとった。私たちは09年を「勝負の年」と見て、同年8月の総選挙に臨んだ。地方参政権付与に賛成する候補を多数当選させるために、組織的な支援活動を大々的に展開することを機関決定し、それを実行した。
新宣言・綱領意味噛みしめ
日本社会の「政権交代」にかける期待が大きかったことが最大の要因だったにせよ、各地民団の働きかけが浸透したのも事実だ。その結果、賛成議員が過半数を超えた。その後、危機意識を強めた反対派の巻き返し、政局の混乱、そして東日本大震災と続く中で暗礁に乗り上げてしまった。
地方参政権獲得は18年も続けてきた主要運動だけに、新執行部が不退転の決意で取り組んでいくと信じている。東北アジアの安定と発展、韓日両国の協同分野の拡大という大義を背景に、地域住民団体として民団が自治体や市民団体との友好・連帯をさらに固め、運動そのものを再構築するだろう。
この2月の中央大会で採択された新宣言には初めて、「日本自らが永住外国人の地方参政権を早期に付与するよう強く促す」ことが明記された。新綱領にも「我々は、日本地域社会の発展を期する」が入った。民団の基本姿勢を内外に、より鮮明に打ち出した意味を私自身も噛みしめたい。
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難題続く中の東日本大震災
底力に「さすが」の感銘…求心体の自意識 鮮明に
私の時代に特有な現象だったのかどうか。中央団長とはこれほど多忙な職責なのかと驚く日々だった。まだ公にできないことを含め、大事件や難題が次々と押し寄せて来たという思いが強い。
北韓の暴挙が相次いだのもその一つだ。09年4月の長距離弾道ミサイルの発射実験に続いて、5月には2度目の核実験を強行した。10年の3月には天安艦爆沈事件、11月には延坪島砲撃事件があった。その度に糾弾の集会や街頭デモを展開し、全国団員と危機意識を共有してきた。
独裁の実権は世襲3代目に移りつつあるようだが、北韓の動向は今後の民団にとっても目を離せない、やっかいな問題であり続けるだろう。
新宣言では基本姿勢の筆頭で、「大韓民国の憲法精神を守護し、在外国民選挙に積極的に参与するとともに、平和統一と先進祖国建設の一翼を担う」ことを謳った。韓半島が地殻変動期にある現在、祖国との関係や統一問題においても、民団の理念的な立場をいっそう明確に打ち出した意義は大きい。
創団60周年の前には5・17があり、昨年の創団65周年の前には東日本大震災があった。この2つはまったく次元の異なる事態でありながら、民団にとっては図らずも組織を引き締める契機となった。
前者は、時に政治的な性格を帯びざるを得ない民団の、本質的な立場を鮮明にさせ、民団理念のもとに団結する意味を再確認させた。後者は、生活者団体であり地域住民団体である民団の位相を明確にし、存在感を高めたと言える。
団長に就任して半年後の07年3月、能登半島地震があり、同年の7月には新潟中越沖大地震があった。私は直ちに現地を慰問した。これらとは異質だが、08年2月には南大門焼失事件もあった。その都度、民団は組織募金を行い、支援の手を差し伸べてきた。
そして昨年3月の東日本大震災。桁外れの、未曾有の大災害が発生したとき、私はたまたまソウルに公務出張中だった。被害はどこまで拡大するのか、東日本の民団はどうなってしまうのか。日本から悲痛な声の電話が相次いだ。現場にいないこともあって、焦りだけが募ったが、すぐさま対策本部の設置を指示し、翌日には帰日して正式に発足させた。
知恵も勇気も出し合い救援
中央本部には、阪神淡路大震災のとき救援活動にかかわったスタッフも少なくない。体制づくりと安否確認を同時進行させ、生活必需品の配送や炊き出しなどの救援活動を一瀉千里で進めた。
対策本部には内外から、3億円を超す義捐金が寄せられたのも特筆すべきだ。「やはり民団だ。民団がやらねば」と、まず、私たち自身が励まされた。義捐金は手厚く配分でき、被災者にも勇気を与えられたと信じている。
命がけで緊急物資を搬送したケースもあった。金銭や物品だけでなく知恵も勇気も出し合い、被災者支援に全民団が一丸となった。だが、これで終わったわけではない。これから本格化する復旧・復興にどう貢献していくか、問い続ける必要がある。
それにしても、一つは5・17事態の克服で、もう一つは東日本大震災の救援活動で、民団は底力を発揮した。私はその底力を2回も味わった稀有な団長と言えるのではないか。すばらしい精神的な財産になった。
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次世代育成へ緩みなく
活性化の潮流 さらに加速を
「みんだん生活相談センター」(07年7月)の設置や、大韓民国の建国60周年を記念した民団初の映像史であるDVD「ドキュメンタリー韓国民団」を制作(08年8月)したことも印象深い。中央団長杯争奪オリニ・フットサル全国大会(第1回=07年4月)も始まった。
私にとって次世代育成も大きな比重を占めた。この問題は組織強化と切り離せない関係にある。07年5月から、全国規模で幹部研修と戸別訪問をワンセットにした集中活動を行い、組織を引き締めた。青年会も独自に戸別訪問運動を展開した。この成果は、同年9月に韓国で開催された「在日同胞青年ジャンボリー」に現れている。600人の青年が参集したのは久しぶりのことだった。
青年会の各地方本部は当時すでに、結成から30年が過ぎていた。少子化や複数国籍者の増加もあって会員対象も減少している。喫緊の課題である各地青年会の再建・活性化は、民団のテコ入れによって波はありながらも着実に実を結んできたと受け止めている。
昨年の「次世代育成1000人プログラム」には、中・高生から青年会員まで当初目標を上回る1100人が参加した。次世代育成の潮流は力強さを増しており、これをさらに加速させていければ、と願っている。
最後に、中央本部スタッフや地方本部幹部皆さんのこの間のご尽力に対し、衷心から感謝したい。特に、それぞれが業務に責任を負い、こまめに会議を持っては意思疎通を徹底し、結束して私を支えてくれた副団長たちにはお礼の言葉もない。
(2012.3.14 民団新聞)