掲載日 : [2003-09-01] 照会数 : 4505
関東大震災同胞虐殺「国家責任に時効なし」(03.9.3)
[ 40年前、川口市内の加害者から聞いたいまわしい惨劇を語る河さん
]
市民団体がシンポ集会開催
事件から80周年。震災体験者が少なくなり、忌まわしい虐殺の事実は闇に葬り去られようとしている。しかし、各地で事件の解明に取り組んでいる研究グループによる地道な掘り起こしが進み、新しい事実も少しずつ明らかになっている。
最近では日本弁護士連合会「関東大震災事件委員会」が、関東大震災時に民間人による在日同胞虐殺を誘発したのは内務省警保局が海軍省船橋送信所から全国に送信した虚偽の流言飛語であると国の責任を認定し、事実解明と謝罪を勧告したばかり。集会でも日本の国家責任と当時の民衆責任に言及した報告が目立った。
日本の近現代史研究家の山田昭次さん(立教大学名誉教授)は「なぜ民衆が自警団を組織して6000人といわれる朝鮮人を虐殺したのか。責任は虚偽情報を流した国にある。そればかりか国は軍隊、警察による虐殺を隠ぺいし、自警団だけを悪者扱いした。虐殺を導き出した責任ばかりか、国家責任を隠した罪も追求されなければならない」と指摘した。
これと関連、日弁連事件委員会で調査にあたってきた東京弁護士会所属の米倉勉弁護士は「国が朝鮮人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすることは再発の危険性を防ぐためにも必要」と強調。さらに時効(20年)の壁にもふれて「国には政治的、道義的責任がある。こうした重大な人権侵害には時効制度は適用すべきではないと考える」との見解を明らかにした。会場からは共感の拍手が送られた。
……………………………………………歴史の真実語り継ぐ…在日同胞報告から
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元自警団員の反省なき独白
埼玉・河正雄さん
集会では在日同胞も報告に立った。
河正雄さん(光州市立美術館名誉館長)は青年時代、埼玉県で見聞きした実体験を「関東大震災80周年に寄せて―埼玉であったこと」と題する「メッセージ」にまとめ、読み上げた。
59年、一家で秋田から川口市に移り住んだ河さんは、旧知の鋳工所社長から呼び止められ、在日同胞虐殺の生々しい事実について懺悔の告白を受けたという。
“大震災の時、闇に紛れて木舟が岩淵より船戸ヶ原に近づいてくるという半鐘が鳴った。自分は家にあった日本刀を持って駆けつけた。現場では自警団が船の中の菰の下に隠れている朝鮮人を竹槍で突き、日本刀で斬りつけていた。そのとき、なんのためにと考える余裕はなく、ただ恐怖と朝鮮人に対する憎悪だけがあった”
河さんは近所の銭湯でも元自警団だったとされう鋳物職人の語る「武勇伝」を耳にしたという。“朝鮮人など人間ではない。こちらがやらねば朝鮮人にやられると思いこんでいた”と語る鋳物職人からは「反省など何一つ感じられなかった」。そのとき、「苦々しい嫌悪感を感じ、いまだに晴れることがない」と河さんは語った。
河さんは「私たちには過去の惨劇を風化させることなく語り継ぐ責任がある」と締めくくった。
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混乱のさなかにも韓日友好
東京・鄭宗碩さん
江戸川区の鄭宗碩さん(59)=「韓国・朝鮮と日本の歴史と文化を知る会」代表=は祖父を虐殺の危機から救ってくれた日本人の子孫を探しあて、昨年9月1日に「感謝の碑」を除幕したいきさつを話した。
鄭さんが父親の斗満さんから「真田千秋さんが命の恩人」と聞かされたのは物心ついたころ。墨田区で暮らしていた真田さんは自警団に追われる鄭さん一家をかくまい続け、自宅から約2㌔離れた寺島警察署まで従業員の警護をつけて無事送り届けた。斗満さんは当時17歳だったという。
鄭さんは99年夏に千秋さんの孫にあたる富士彦さん(59)を探し出し、祖父や父親の念願だった千秋さんの墓参りを実現した。その席で「一家を助けてくれた経緯を形に残したい」と富士彦さんに申し入れ、真田家の菩提寺に高さ1㍍ほどの碑を建てた。
鄭さんは「歴史の真実を風化させることなく広め、本当の友好と連帯の道を築くための一歩にしたかった」と述べた。
(2003.09.03 民団新聞)