民団サランこれからも
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幼時の民団通いが縁…次世代につなぐ大切さ実感
林永起さん(青森)
私の生まれた青森県は同胞の少ない地方だ。それでも、幼少期のオリニキャンプには100人ぐらい参加していた記憶がある。祖父(林圭復)は県本部団長、祖母(徐戊生)は婦人会長だった。
生後すぐに東京に越したが、夏冬の長期休みになると、母に連れられ帰郷する。まずは祖父母に挨拶をし、安寧であったことを確認し合う。
「ごはんはちゃんと食べているか?」「はい」「勉強をしっかりやっているか?」「はい」。交わす言葉はこれだけ。あとは、祖母がやさしく手を握り体を撫でてくれる。祖父は憮然とした表情でただ黙っている。東京に帰るときには、勉強に使いなさいと小遣いをくださり、袋いっぱいの握り飯を持たせてくれる。
父(林三鎬)は大学進学で上京してから、一度青森に戻り、韓国から迎えた母と結婚した。私が生まれた直後に、青年会中央本部結成のため再び上京した。その後、民団中央本部に勤めるなど、およそ40年間、活動を続けている。
父については、青年会で私が活動するようになり先輩たちに教わったり、保管資料や記録物で知った。
記憶として残るのは、出張先の地方から絵葉書を送ってくれていたことだ。まだ字も読めない私たち兄弟に宛てて、何だか小難しいことが書かれていた。家に帰ってくるときには、大勢の友人を連れてくる。宴会で賑やかだったが、母は大変そうであった。
車で一緒に出かけたりもした。海や山にもよく連れて行ってくれた。集会やシンポジウムにもよく連れられて行った。もちろん、これはまったく嬉しくなかった。いつも唐突で、行き先がどこかは着くまで分からないことが多く、目が覚めたら岡山だったこともある。
私が民団で活動するようになったのは、今から20年ほど前、大学生になり青年会や学生会に参加したのが始まりだった。その時に父に強く推められた覚えはあまりない。ただ、イベントの案内や誘いにそれほど躊躇せずに足を運んだのは、私にとって民団の存在が近かったからだろう。今は幼少期からいろいろなところに連れていってくれたことに感謝している。
同胞の希望の場
祖父母はすでに他界し、父は昨年古希を迎えた。私は父親になり6歳の息子は在日4世だ。最近では民団に連れて行ったりオリニ行事に参加させたりしている。楽しかったと言ってくれると最高に嬉しい。
1世の祖父母たちは差別と貧困の中、力を合わせ民団をつくってくれた。1世にとって民団は未来への希望であったのだろう。2世の父母たちは、様々な苦難の中、その歴史を紡いでくれた。そして今、それは私たち3世に託され、4世、5世と続く次の世代にしっかりと繋いで行かなければいけないと思う。
(元青年会中央副会長)
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林圭復団長(右端)と、青森を訪れた民団中央の金致淳副団長(中央。1979年) |
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組織人だらけの環境…もっと知ろうと常勤者に
丁光栄さん(愛知)
「きみは民団のサラブレッドだ」
たまに聞かされるこのフレーズは、僕のハラボジ(丁賛鎮)とクナボジ(丁海龍)が元民団中央本部団長で、アボジ(丁海遊)が組織歴50年の愛知県本部現職監察委員長だからだ。
育った家庭環境から見ると、ピッタリ当てはまる言葉かもしれないが、僕自身はピンと来ない。「別に大したことではないのに」というのが正直な感想だ。
実際、家庭では家族の誰もが民団の話は一切出さない。特にクナボジはいつもとても優しく接してくれるし、今でも尊敬すべき人物だ。
アボジに同行する形で3歳くらいから民団の行事へ参加するようになった。光復節記念式典で会場全体で歌う愛国歌に興味を持ち、自分から覚えた。学校の自由研究のテーマは常に韓国についてだった。「永住外国人の地方参政権」も何度も取り上げたことがある。
普段から本名を使い、自分は韓国人であると豪語しながら生きてきた僕にとっては、そういうことは当たり前のことだったかもしれない。
大学を卒業して一旦は民間企業に就職したが、24歳の時にアボジにお願いして民団に常勤者として入った。自ら民団に入った最大の理由は、これだけ身近に「民団人」がいても、民団が何をやっているかわからなったからだ。僕のような育ちの者でさえわからないのだから、一般団員はもっとわからないだろうと思っていた。
「民団が何をやってくれるのか」という素朴な問いかけに、「民団に風穴を開けたい」と思った。ある意味で改革をめざしていたが、想像以上に慣例という名の「悪しき風習」は根深く、改革には時間がかかるとすぐに悟った。
しかし、やれることからやろうと手がけたことがある。それは、いわゆる「飲み食い民団」をまず廃止にしたことだ。
愛知県では現在、飲食代の経費利用は一切禁止している。厳しい年金生活を送りながら団費を払ってくれるありがたい団員も多くいる。活動しながら、1世のハラボジやハルモニ、先輩2世らの顔を思いだす。彼らからいただくその貴重な団費は、決して役員の腹を肥やすためのものではない。
1歩ずつ着実に
勤めて12年目になるが、いわば「富士山にトンネルを作ろうとするのに、延々とスコップで掘っている」という現状だ。先はまだまだ見えない。それでも1歩ずつ着実に削掘は進んでいると感じる。
団員がいてこそ民団がある。団員不在では活力も湧かない。民団には団員の要望に応える義務がある。こんな心構えで臨みながら、自分自身一団員であり、団員の目線で接し、その要望に応えていきたいと思っている。
(民団愛知総務部長)
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北送反対運動を指揮する祖父の丁賛鎮団長(中央。1959年) |
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特命の留学が転機に…団長だった祖父・父知る
李東晋さん(宮城)
人生を大きく変えたのは20歳を迎えたときだ。民団の成人式に招かれ、代表答辞を言い渡された。あまりの出来事に心を石にしてやり過ごした。約1年後のある日突然、父から特命が言い渡された。「韓国に留学してこい」。しかも出発がまさかの2日後。チケットまで準備してあった。
当時バイトもあったし、彼女もいたので、そんな「提案」を拒否しようとしたが、尋常な空気ではなかった。「行かない場合は今日限りで縁切りだ」。冷酷に告げる父に、自分の行いを反芻しながら諦念した。自分を待っていたのは02ワールドカップと寄宿舎での絶望の日々だった。父が近くの本屋で辞書を一冊買ってくれた。どうやら、これで何とか頑張れという話のようだ。
逃げ出すわけにもいかず、やむなく覚悟を決めて「何とか1年間やり過ごすか」とスイスから来たルームメイトと英語で対話しながら半期を過ごした。狭い日本で閉鎖的に育った自分にはカルチャーショックの連続。
1年の留学期間の折り返し地点の夏、一時帰ってきたその日に、母に焼肉屋に連れて行かれた。そこにはどこかで見たことのある2人が待っていた。しかも夏なのにスーツを着ている。青年会長と副会長だった。
2人が話しかけてきたのは、オリニ林間学校の運営の勧誘だった。「なぜ俺が?」と全く理解できなかったが、イベントで農楽演奏をするらしい。チャンゴは振興院に留学中、文化の授業でも習っていたため、一気に興味が湧いてしまった。「一度やらせてください」と言ってしまい、行くはめに。
チャンゴ好きで
チャンゴももっとやりたくなり、青年会のサークルに参加することになった。特訓を終え、七夕パレードの青年会農楽隊チームに加えてもらった。地元のお祭りでもあり、韓国人全開で出演することに違和感と戸惑いと嫌悪があったが、その演奏という魅力で全てを越えることが出来た。充実感はたとえようのないもので、僕の心の空気も変わった。青年会メンバーからの連絡にも違和感が消えた。
韓国留学を終え、青年会に入ることになった。社会人として活躍している先輩方に叱咤され続けるうち、少しずつ丸くなっていた。気づけば青年会で知り合った子と結婚し、「責任」という言葉がどういう意味なのか、一つひとつ分かっていく日々を送り、自分が青年会の中で獲得した経験値は、これまでと比べて大きすぎるものになっていた。
可能な事は限られているが人こそ組織であり、後輩たちが多くを体験してもらえるよう、地ならしを続けたいと会長職に就いた。知らぬうちに民団会館に数多く訪れるようになり、青年会保存のアルバムや写真を整理することがあった。数十年前の会長の白黒写真を発見。なにやら自分と同じ顔で、正気を失いそうになった。もしや?そう、父だった。
過去の激動の中で諸々自分たちなりにやってきたんだなと写真を見つめた。そもそも、家では会話がほとんどなく、しかも民団の話題などは皆無だった。民団やら仕事やらでほぼ家に居ない父だったが、何をしていたのか写真や記録で少しずつ分かってきた。
祖父(李景淳)、父(李根)ともに民団宮城本部団長を歴任している。特に父は青年会会長OBでもある。
(民団宮城文教部長)
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東晋さんの結婚式に出席した祖父と父 |
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学んだ同胞への奉仕…教育に私財を投じた祖父
崔俊一さん(大阪)
家が支部と近かったので、幼い頃から行事があるたびによく行われた民団に顔を出した。
近所の公園で行われた民団と総連の合同野遊会に、アボジ(崔長煕)から誘われたことがある。老若男女の同胞らを、かいがいしくもてなすアボジの姿が今も印象に残っている。支団長になったアボジがデイハウス事業を始めたのも、常に同胞に奉仕する気持ちが根底にあったからだ。
幼稚園から中学まで金剛学園に通った。ある日、校長室に行ったら、ハラボジ(崔仁俊)の写真が飾られていた。家に戻りその訳を聞いたら、初代理事長だということがわかった。
中学生の時に亡くなったハラボジのことは、大きくなってからいろいろと聞いた。一代でボルト・ナット工場を立ち上げたとか、家政婦を雇えるくらい裕福だったとか。だから、私財を投じて金剛学園を設立したということだった。
解放後初の統合民族団体である朝鮮人連盟が分裂し、民団に生まれ変わる過程で、金剛学園も唯一民団系の学校になった。すごいなと思う半面、早く亡くなったためにわが家も大変な苦労をした。ハルモニとアボジが家を守って、できる限り金剛学園にも協力した。アボジも弟2人も金剛出身だから、「親子3代金剛学園だ」と胸を張る。
韓国芸大に留学
コモ(崔淑姫)も金剛の教員のかたわら在日民俗舞踊の創始者とも言える「グループ黎明」の活動をしており、地域のお祭りやイベント、発表会に出演していた。そういう環境に育ったので、小さい頃からサムルノリに興味をもった。チャンゴの師匠は金剛の先輩でもあるミン・ヨンチさんだった。師匠と弟子の関係で、自身も「黎明」で活動した時期もある。
ミンさんが韓国に留学し、伝統打楽器のグループを結成して日本公演をするのを間近で見てさらに影響を受けた。2001年に韓国芸術綜合大学に留学、11年間韓国で過ごす中で、自分が在日であることを強烈に意識した。「韓国の中でも差別ではないが、在日は何か区別されているな」と実感した。
日本に戻り、ハラボジやアボジの時代ほど、差別はひどくないが、「反骨精神」が自分の中にもあることもわかった。誇りある在日として生きたい、在日社会に何か還元したいと思ったのが民団に入るきっかけになった。
増えている日本国籍同胞にどう対応していくか。学生会や青年会など若い層をどうサポートしていくか。オリニジャンボリー参加者のアフターケアを含め課題は多い。
しかし、それは自身のやりがいにも通じると手ごたえを感じている。
(民団大阪文教副部長)
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金剛学園の現校舎。円内は祖父の崔仁俊初代理事長 |
(2016.1.1 民団新聞)