掲載日 : [2003-12-24] 照会数 : 5244
高句麗史めぐり韓中せめぎ合い(03.12.24)
[ 世界的に有名な高句麗時代の古墳壁画(舞踊塚狩猟図) ]
中国・自国史に一方的編入
韓国歴史学会が批判…情報収集し研究会も
高句麗は中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中国史の一部とする中国学会の動きを受けて、韓国の歴史学会が中国を批判するなど韓中間がせめぎあっている。9日に行われた歴史学会の批判に続き、12日には韓国政府も情報収集などを通じて対応する姿勢を見せ、与野党議員らも「中国の歴史歪曲中断を促す決議案」を国会に提出するなど慌ただしい動きを見せている。
これまで韓国学会は「高句麗は満洲と韓半島の北西部を中心に、古朝鮮から三国を経て統一新羅、渤海へと続く韓国史の巨大な流れを形成したわれわれの歴史」として認定してきた。また、古朝鮮から高句麗、渤海につながる朝鮮民族北方史の研究では韓国以上に研究が進んでいる北韓は、中国の高句麗史編入に対して「高句麗は、中世初期の朝鮮民族を代表する最初の国家だ」と強く反発している。
中国は2002年2月から、高句麗の歴史を中国史の一部に編入するため「東北辺疆の歴史と現状系列研究行程(東北工程)」というプロジェクトを進めている。中国社会科学院と東北3省が共同推進しており、5年間で総額200億人民元(約3兆ウォン)という膨大な予算をかけた計画だ。これは、高句麗が中国辺境の少数民族が建てた地方政権であり、中原の政府に代ってその地域を委譲、統治した割拠政権であったことを立証するというものだ。
今年6月には、中国共産党の学術分野を代弁する「光明日報」が「平壌遷都前までは中国史」としていた従来の主張を捨て、「遷都以後の高句麗史も中国史」といった「東北工程」の趣旨に添う主張をしている。
昨年、北韓の高句麗古墳をユネスコの世界文化遺産への申請が中国の工作によって先延ばしされ、高句麗が満州一円を掌握したことを立証する決め手となる広開土王(好太王)碑と、集安一円の高句麗古墳に対する大掛かりな整備に乗り出したのも、この動きと無関係ではないと韓国の関係者は見ている。
ソビエト連邦が崩壊して少数民族がCIS国家として独立し、その後ロシアは超大国としての地位を失った経緯を引用して歴史学者らは、自国内における少数民族の独立および自決権の要求を未然に防ぐ一方で、韓半島が統一した場合、吉林省、黒龍江省、遼寧省など東北3省に住む朝鮮族たちの動揺を防ぐための長期的な布石であると分析している。
04年6月にはユネスコ傘下の世界遺産委員会(WHC)総会が中国の蘇州で開かれる。その場で、今年7月に世界文化遺産の登載を申請したものの先送りにされた平壌の高句麗古墳群に対する再審と、中国吉林省・集安県所在の高句麗遺跡に対する審査が同時に行われるという。しかし、北韓の遺跡が再審で脱落し、中国の遺跡のみが認定された場合、高句麗史が中国史として公認されるといったことが起きてしまう可能性もある。
これに対して韓国政府は教育人的資源部と韓国精神文化研究院に高句麗史を含めた古代史を、体系的に研究できる韓中歴史共同研究会をそれぞれ設立し、南北、中国、日本、モンゴルの学者が参加する北東アジア共同研究委員会も作ることにしたという。また、中国学会の「東北工程」プロジェクトに対する情報収集とともに、外交ルートを通じて中国側に憂慮を伝える予定であるともいう。
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高句麗の関連史
高句麗(紀元前37〜668)は現在の中国東北部から韓半島北部を中心に領土を広げ、4世紀末に最も栄えた。広開土王の業績を刻んだ碑が有名。百済、新羅と抗争。668年、唐、新羅の連合軍に滅ぼされた。
韓国の開国起源は、檀君王朝が紀元前2333年10月3日(開天節=建国記念日)、アサダル(平壌)に都を定めて建てた古朝鮮(〜紀元前108)。その後、高句麗、百済、新羅が4世紀から7世紀半ばにわたり韓半島を3つに分けた3国時代(紀元前57〜676)を経て、統一新羅(676〜935)が3国を統一。三国を統一した統一新羅の衰退とともに、再び始まった〞後三国時代〟を終息させたのは、高麗王朝(918〜1392)。太祖王建は、新羅末に分裂した韓半島を再統一し、高句麗の精神を受け継ぐために、高句麗を縮めて高麗という国号を称した。また、現在の中国東北部と韓半島北部を占めた渤海(698〜926)は、高句麗の将軍・大祚栄が高句麗の復興のために遊民と建国した国。高句麗の文化を継承したり、過去の高句麗の土地をほとんど回復した。
(2003.12.24 民団新聞)