励まし、励まされ 復興へ一歩ずつ
東日本大震災から1年。津波や原発事故によって生活の場を失った在日同胞は数多い。民団は「被災者支援対策本部」を設置し、義捐金の呼びかけ、救援物資の提供、炊き出し、医療支援、見舞金伝達など、様々な救援活動を展開した。韓国からも官民あげて救援物資の提供が相次いだ。復興にはほど遠い状態が続く中、被災同胞は民団や韓国からの支援に応えるかのように、地域住民と協力しながら、再起に向かってたくましく歩んでいる。
■□「出生地だからこそ…」
壊滅の町で店復活 高浩暎さん(43・岩手県大船渡市)
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震災直後、津波で全壊した旧店舗(左)と新しくオープンした店舗と高浩暎さん |
陸前高田や気仙沼とともに陸前海岸の代表的な町、大船渡。この町で生まれ、海岸近くで営んでいた高さんの焼き肉店をはじめ、親戚たちの飲食店など、町全体が津波で壊滅した。
「命が助かっただけでも」と思うしかなかった。 再開をめざすきっかけとなったのは、町の仲間たちやお得意さん たちの声だった。
「また、あの焼肉を味わいたい」「僕らも協力するから」
店舗探しを始めたのは6月すぎから。しかし、好条件の物件はなかなか見つからない。結局、見つけたのは津波が襲った同じ町だった。公庫に復興特別貸付を申請した。
8月に店舗を確保したものの、困ったのは工事業者の手配だった。どこの職人や業者も復興工事に追われ発注先がみつからない。ここで、支えてくれたのが町の仲間たちのネットワーク。 それぞれが、あらゆる知り合いに連絡をとりあってくれ、ようやく業者が決まった。もちろん自ら内装も行った。11月から工事を始め、約2カ月をかけオープンにこぎ着けた。店舗は以前とほぼ同じ約100平方㍍。
「どうしても年内に再開したかった。2011年を忘れないためにも」
一部未完成だったが、昔のスタッフや弟を呼び寄せ12月27日にのれんをあげた。
もちろん町の仲間やお得意さんたちも開店を見守った。満席となった8テーブルの客席、最初に出したメニューはタン塩とカルビ。網の上で威勢よく煙が上がった瞬間、みんなで抱き合った。
看板は大好きなオレンジ色。交流、行動の意味を持っているから。
「多くの仲間たちに支えてもらい、とにかく死にものぐるいで行動していきたい」
「何もなくなった時に民団が届けてくれた救援物資と見舞金が生きつなぐ大きな力になった。あのおかげで再起への勇気が沸いた」
■□自宅改装し弁当店
家族愛が生んだ希望の味 朴明子さん(70・岩手県山田町)
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自宅を改装し家族ぐるみで弁当店を開業した |
長女が経営していた山田町駅前のカラオケ店、次男が営む喫茶店など、生活基盤を津波で失った。唯一、残ったのが高台にあった自宅だ。
「まさかあんな津波が来るとは」と地震直後の様子を話す。無惨にも家屋をなぎ倒していった。次男夫婦は津波から逃れようと見知らぬ家に飛び込み、住人の手を引っ張り2階に駆け上がって助かった。
石巻市で介護職にたずさわる次女は震災から2日目に、釜石から歩いて帰ってきた。朴さん一家は一旦、避難所に逃れた後、自宅で5世帯16人が暮らすことになった。
その数日後、民団岩手本部が救援物資を運んできた。窓から見ていた。トラックと乗用車が来た時、涙が止まらなかった。
「私たち在日同胞を助けてくれる民団と母国があったと思うと、感謝の気持ちで一杯でした」
朴さんは体調を崩し、体重が10㌔近く減った。医師の「今までずっと頑張ってきたんだから、これからは気を休めて」との言葉に救われた。
震災から約3カ月後、「これからどうやって生きていこう」と思い悩んでいた時、長女と次男が、「うちの台所を使って弁当屋をやろう」と提案。6月に再起への一歩を踏み出した。8月には次男が喫茶店を再開。さらに10月からは自宅を改装して正式に弁当店として長女が働いている。
「2人目のひ孫も生まれ、孫娘も手伝っている。家族の大切さを痛感、命があるからこそ味わえる幸せです」
■□料理講習会を再開
「韓国の心、伝え続けたい」全慶禧さん(58・宮城県仙台市)
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震災から1年が過ぎ、ようやく店舗の再開にめどが立った |
仙台市内を運転中、信号待ちをしていたとき、突然、車が大きく揺れ出し慌てて飛び出た。 98年に来日した全さんは仙台市の自宅と韓国料理店、気仙沼市にもある自宅などが半壊した。当時、息子は韓国で軍に入隊中で病身の夫は気仙沼にいた。
気仙沼に電話がつながらず不安が募る中、ようやく安否確認がとれた。近所の友人や親戚たちすべての家屋が津波に流されたが、みんな早々に避難したため無事だった。
震災直後、民団宮城本部から提供された救援物資を地元の被災者に届けるため、片道5時間をかけ仙台と気仙沼を軽トラックで何度も往復した。
ラーメンや水、サムゲタンなど、韓国の食べ物がとても喜ばれた。
偶然知り合った韓国の取材班を気仙沼の自宅に1カ月間泊めたり、近所に住む日本人妊婦の病院への送迎運転も買って出た。
「今、思い出すと生きているだけでも感謝しないと。民団からの救援物資は自分が守られているんだなという気持ちで胸が一杯になった」
1年経った今、ようやく店の再開へめどが立った。ただ、人手が足りず「3・11」には間に合わなかったのが残念だ。
仮設住宅で暮らす被災者には今も、韓国の妹から送ってくる食品を届けている。
3年前から仙台国際センターで行っていた韓国料理講習会などは中断したままだったが、つい先日、1年ぶりに再開、受講生たちと喜びあった。
韓国では国家公務員の経験もあり、特別避難訓練や空襲退避訓練などを定期的に行っていた。
「震災当時、あの時こうすれば良かったと悔やむことは多い。異国で困った人たちを助けたいし、経験を生かし防災関係の力になりたい」
■□地域文化・被害実態を記録へ
歴史豊かな気仙沼の漁業…外国人被災状況を
郭基煥さん(44・東北学院大准教授)
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がれき撤去のボランティアも精力的に続けた |
「あの揺れは誰もが経験している。内陸部は揺れが収まって、1週間目くらいから何とか生活できた。だけど、沿岸部の被害状況はひどい。申し訳なさに居ても立ってもいられないという気持ちでボランティアを考えた」
在日3世の郭さんは震災直後、民団宮城本部や仙台総領事館などに連絡し、自分も何か役に立ちたいと申し出た。民団での安否確認、同時に大学でも学生の安否確認に追われた。
昨年3月29日、2週間足らずの準備期間を経て、大学内にボランティアステーションを立ち上げ、翌日、教員2人、学生数人とさっそく石巻市で1回目のがれき撤去作業を行った。
現場は膨大ながれきの山。泥の臭いもきつく、家屋に放置されていた冷蔵庫からは悪臭が漂ってきた。
学生たちは嫌な顔もせず、一生懸命作業を続けた。石巻市での作業は20回ほど続けた。
「がれき撤去は1回で疲労困憊する。壊滅現場を見て、仙台市内に戻ると日常がある。それが実に空々しく感じた」
民団宮城本部の炊き出しにも学生を伴って参加した。夏休みには気仙沼市で約2カ月にわたって、写真洗浄などのボランティアも。
今、歴史ある気仙沼の漁業文化を記録に残すための計画を進めている。
「風景が全て変わった。3・11前の様子を地元の人に聞いていく」
この作業は最低でも1年間はかかる。
そしてもう一つは、仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク「東北ヘルプ」で、外国人被災者の被害状況などを調査してまとめる。
「肩もみ隊」は対話の場として被災者の身も心もほぐした
■□ボランティア通じ進路発券
被災者の身も心もほぐす…避難所で「肩もみ隊」 崔壇悦さん(28・宮城県多賀城市)
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「肩もみ隊」は対話の場として被災者の身も心もほぐした。崔さんに賛同し県外からもボランティアに加勢した「多賀城肩もみ隊」 |
「避難所の被災者は固い床で寝ていた。私たちができる支援を考えた」
在日3世の崔さんは、自ら「肩もみ隊」を企画。ゴールデンウィークから7月20日まで毎日、賛同したボランティアたちと被災者の体と心を癒した。
震災当時、千葉県で一人暮らしをしていたが、多賀城市の実家と連絡が取れなかった。いたたまれない気持ちで駆けつけてみると、ライフラインは途絶えていた。
最初に始めたのは清掃ボランティア。その後は1カ月間、がれき撤去作業を行った。
「一面は泥に浸かり、流された車とがれきの山。崩壊した町にショックを受けた」
崔さんは従兄弟が在日韓国青年会で活動していたことから、民団宮城本部が避難所で行った炊き出しにも参加した。
避難生活で疲弊している被災者のために何か力になりたい。そこで思いついたのが「肩もみ隊」だ。この活動に賛同した仙台市内のエステティシャンや学生が加勢。県外からも加わり、「隊員」は5、6人まで増え、一人あたり1日10〜12人の肩もみをした。
「夜、眠れない」「これからどうしよう」。被災者たちの多くがこんな嘆きを口にする。肩もみより、悩みを聞いてくれる場を求めていたからだ。体をほぐすとともに対話が何よりも心の癒しとなった。
8月から半年間、韓国に語学留学した。同胞の子どもたちに、ウリマルを教えたいという夢があったからだ。
民団の成人式をきっかけに、青年会のイベントには積極的に参加。
先日、民団から声がかかり、4月から始まる新年度の「オリニ文化スクール」でウリマルを教えることになった。
「ボランティアを経験したことでやりたいことが見えた。希望を持ちながら同胞同士のつながりを積み上げていきたい。日本社会に住んでいても気負わず、民族のプライドを持てるように」。 目標を見つけた崔さんの声はとても明るい。
■□地域住民との支え合い拡大
阪神淡路でも支援活動…第2の古里に恩返し 李信純さん(41・福島県いわき市)
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水、食料、衣類など民団では連日、救援物資を届けた |
小学校行事で早めに帰宅した子ども2人と出かける準備中に地震が襲った。隣近所に避難を呼びかけ、衣類と食料を車に積み込み高台へ向かった。
阪神・淡路大震災も遭遇した李さんは、かつての支援活動の体験を生かした。
「神戸のこともあったし、動転している人たちに冷静に話しながらアドバイスした」
小名浜港は福島県内初の大型耐震強化岸壁として整備されてきた。北側の豊間地区では、約8㍍の津波が襲ったが、小名浜港内では3〜5㍍の浸水で済んだ。防波堤による津波低減効果があったと推察される。
自宅は津波による被害は逃れたが、12日の明け方には、自宅前に夫への張り紙を残して避難した。
民団福島本部が救援物資を届けにやってきた。李さんは「近所の同胞には私が届ける」と申し出た。民団や韓国からの救援物資はこの後も続いたが、「困難を極めた状況で来てくれて、今まで味わったことのない気持ちになった。被災者への思いやりの気持ちが何よりも嬉しかった」
京都から嫁いで約12年。気丈で明るく、韓国人だということを隠さず、地域の人たちとはすぐに溶け込んだ。今回の震災でも互いに飲料水や食品を分け合った。
震災によって失われた景色がある。それを見るのはとても辛い。
「落ち込んだ姿は見せないようにしている」
原発事故に伴う放射能問題がなければ「ここはストレスを感じずに暮らせる第2の古里」と話す。地域の子ども会で行われる放射能測定を担当することになった。
「地域の人たちに恩返しし、もっと親睦を深めたい」
(2012.3.14 民団新聞)