掲載日 : [2004-06-30] 照会数 : 9033
<Special Wide>七夕を前に考える①伝え続けた先進ソフト
<Special Wide>七夕を前に考える 暦と時の韓日交流①
7月7日は七夕。天の川をはさんで、牽牛星と織姫星が年に一度のデートをする。古代中国が発祥のこの物語にも、天体の動きを正確につかむ天文学の発達を基礎とした暦や時間の測定法の整備が背景にある。湿気の多い気候と関係があるのか、日本では天文学や暦法の普及がかなり遅く、その発展は5世紀中頃、百済から暦博士や暦本が伝来してからだ。その後も、朝鮮朝の世宗時代に花開いた先進科学が朝鮮通信使によってもたらされている。七夕の星空を見上げながら、韓日の歴史的なつながりを思うのも一興だろう。日本で七夕が盛んになったのは、織姫伝説が日本の機織の始祖とされる新羅系渡来集団・秦氏の伝承と関係があることも念頭におきたい。
古代から朝鮮通信使まで…伝え続けた先進ソフト
邪馬台国や卑弥呼のことを記した『魏志倭人伝』の注には、「其の(倭の)俗、正歳四時を知らず、但、春耕秋収を記して年紀となす」とあり、3世紀中頃の日本では稲作に不可欠の季節の移ろいを把握してはいても、年や日時を表す暦はまだ存在していないことを暗示している。
最初の暦法は百済から
日本では6月10日が「時の記念日」とされている。その根拠は『日本書紀』671(天智天皇10)年の条、「夏四月(うづき)の丁卯(ひのとのう)の朔、辛卯(かのとのう)の日に漏剋(ろこく=水時計)を新しき台(うてな)に置く、初めて候時(とき)を打つ。鐘鼓(かねつづみ)をとどろかす」の記述である。辛卯の日をグレゴリオ暦に換算すると6月10日になる。漏剋が時刻を告知するということは、歳月の経過は知っている、つまり暦が使われていることを示している。
さらに『日本書紀』553(欽明天皇14)年6月、天皇が百済に暦博士や暦本の交替を要請し、翌年2月に暦博士など数人が百済から来日したとの記述があり、日本での暦使用の起源はこの辺りだと考えられる。ただし、その運用は百済人暦博士におまかせだった。さらに602(推古天皇10)年、百済から僧・観勒(かんろく)が暦や天文地理などの書籍を携えて来日し、三、四人の書生を彼の下で勉強させたとある。
だが、暦法使用はまだ本格的ではなかったようだ。平安時代に書かれた『政事要略』という古文書に、604年になって「この年の正月から初めて暦日を用いた」とあるからである。『日本書紀』ではこれよりさらに遅く、690年に「このとき初めて元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦(ぎほうれき)を行う」と書かれている。
この記述によって、日本での暦法開始は一般的には690年とされている。つまり671年、天智天皇が漏剋の使用を開始したときは、その前提となる暦法はまだ百済人に任せたままであり、したがって漏剋そのものの操作も百済人に頼っていたと想像される。
元嘉暦とは百済で使われていたもので、中国南朝の宋で作成された。553年と602年に百済から伝来したという暦はそれであろう。一方、儀鳳暦は高句麗と新羅で使われていた。中国北朝の北魏で作られ、隋、唐初期まで使用されていた。持統天皇の時代から儀鳳暦が使われたということは、この暦法が新羅伝来であることを物語っている。
持統天皇とその夫であった天武天皇は日本の古代王権では珍しく「親新羅」派であり、遣唐使もこのころは途絶えて外交相手は新羅だけであった。天武期から持統期にかけて、百済に代わり新羅から儀鳳暦を携えた暦博士がやって来たのである。その後、日本では儀鳳暦の使用が主流になる。
新羅と日本が険悪な仲になって以降、奈良時代の遣唐使が伝えた暦に二度改暦されるが(763年・大衍暦、780年・五紀暦。但し、五紀暦の使用は平安時代になってから)、さらに859年、渤海大使・馬(烏)孝槙が当時の唐の最新暦である宣明暦を日本に伝え、862年から施行された。宣明暦はその後8百年間、江戸時代初期まで使われ続けることになる。
このように、古代日本で施行された暦法のオリジナルは全て中国製ではあるが、その暦法を日本に直接伝えたのは、時々の日本側政権と良好な関係があったそれぞれの韓半島国家であった。
暦が改められるのは、暦法と実際の天体の動きに誤差が生じるからだ。当然、8百年も使われた宣明暦には齟齬(そご)が目立つようになっていた。江戸時代初期、暦の夏至と実際の夏至には二日の誤差があったという。1685年、渋川(安井)春海という暦学者のすすめで、新たに貞享暦が施行された。渋川は本因坊などと同様の職業棋士の家系(安井家)出身で、暦法や天文学、数学の天才ともいわれ、独自の地球儀、天空儀をつくり、晩年には初代幕府天文方に就任する。
最新の授時暦を伝授
この渋川の暦づくりに大きな影響を与えたのが、朝鮮通信使の一員として来日した暦学者であることはあまり知られていない。渋川は若い頃、岡野井玄貞という人物から暦法や天文学を学んだが、岡野井は1643年に来日した朝鮮通信使の製述官であった朴安期(容螺山)と親交があり、最新の暦法である授時暦を伝授された。渋川の貞享暦はその授時暦が基礎となっている。
授時暦は天体の動きとの誤差が少なく、当時としては精緻なものだった。授時暦は韓国では世宗大王のときすでに施行され、『世宗実録』の付録『七政算内篇』という書物にその暦法がまとめられている。おそらくその複製が朴安期から岡野井に伝えられ、天才との呼び声が高かった渋川がその内容をさらに吟味して、新たな暦作りへとつながったのであろう。
書物の形で授時暦を日本に伝えているものは『七政算内篇』しかなく、接点は朝鮮通信使以外には考えられない。世宗大王の時代、ハングル創成を始め、文化、芸術、科学技術、天文など様々な分野の学問が一斉に花開いたが、様々な精巧な時計や世界初の雨量計が発明されるなど、気象、天文、宇宙論など科学分野とそれらの基礎となる数学がそのとき一挙に発達したことが知られている。
朝鮮朝では、いわばソフトである暦や天文学と、ハードである時計や雨量計が同時に進化していたのである。日本では江戸時代初期から西洋式のぜんまい時計があり、ハード面は備わっていたものの、ソフトである暦が追いついていなかった。
授時暦の解説書である『七政算内篇』とは別に、天文学や宇宙論を記述した『七政算外篇』も存在し、それも渋川に伝えられた可能性が高い。渋川は当時としては非常にユニークな宇宙論を発表しており、世宗大王時代に発展した科学分野の成果が、岡野井や渋川を通して江戸時代の日本に伝えられたことは間違いないだろう。幕末までにさらに三度も暦法が改められるが、どれも貞享暦を基礎として流行の西洋天文学の成果を加味したものである。古代から幕末まで、日本で新たな暦法が施行される時、その時代の最新暦を日本に伝えた韓国暦学者の役割には大きなものがあった。
(2004.6.30 民団新聞)