掲載日 : [2005-02-23] 照会数 : 9072
MINDAN「孝道賞」 親孝行エッセイ・コンテスト受賞作品
[ 金克基さん ] [ 昔は曾祖父母まであわせて3〜4代にわたって数十人が一緒に暮らした ]
民団で募集した「孝道賞」親孝行エッセイ・コンテストに、全国から多数の心温まる作品が寄せられた。厳選な審査の結果、10人が選ばれた。駐日大使特別賞(全文)をはじめ、各部門入賞作品(要約)を紹介する。
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駐日大使特別賞
見えない贈り物
金克基(22) 大学生(宇都宮市)
父の大病で知った愛することの尊さ
親孝行を真剣に考えるようになったのは、ある年の夏休みからである。
私は一人っ子で、両親の愛情を一身に受けながら、いつしかそれが当たり前と思うようになっていた。何をしても許されるという甘えから、中学卒業後は無断外泊を繰り返し、面倒だからと家では親と顔を合わせない生活を続けていた。
ところが高校2年生の時…。いつもの様に外で遊んでいた私の携帯電話が鳴った。番号通知は母からのものだった。その頃の私は親からの電話には出ないでいた。けれども、普段は1回で諦める母が何回もかけ直して来る。仕方なく応えた受話器の向こうの声は、涙でかすれていた。
動揺する私に「アボジが倒れた」という言葉が響いた。心筋梗塞だという。昔から丈夫が取り柄で、病気一つしたことがなかったのに…。
病院で見た父は大手術の後で、鼻には管が通されていた。顔面蒼白でいつもの元気な面影は全く見られず、私は言葉を失った。手術は成功したものの予断を許さないと医者に言われ、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。このまま最悪の事態になったらと思うと、自然に涙が溢れて来た。
その晩の病室で、私は自分の人生を振り返って見た。そこにはいつも好きなことをさせてもらいながら、父母の肩一つ揉んだことのない甘えん坊がいた。愚かさにようやく気付いた瞬間だった。 ならば今出来ることは何だろうと思い直し、目を覚ますまで、せめて父の手を握っていようと決心した。「あなたがこのまま逝ってしまったら、私は一生後悔します」と胸の中でつぶやき、「これからは親孝行をさせて下さい」と祈り続けた。 翌朝、父は無事に目を覚まし、最大の危機は過ぎ去った。私は泣いて謝り、これからは両親を大切にすると誓った。だが、そんな私を見た父は、全く思いがけないことを言った。
「親孝行なんて意識してするものじゃないから、お前が元気で自分らしく生きているだけで充分だ。親子は理屈じゃないんだ。だからもう情け無い顔をするな!」
私はそれを聞いて一つわかったことがある。親孝行をするなら、まず親を好きになることだ。居て当たり前ではなく、無くてはならない存在であることを心にとめるべきなのだと思う。
今、父は大病を患ったとは思えないほど元気だ。最近では、一緒に酒を飲みながら話をすることも多くなった。冗談でやきもちを焼くふりをする母は、私たち父子を見るのが面白いと言う。
今では私の一番の癒しスポットが我が家である。父の病気は私に家族とは何かを教えてくれた。そしてこれからも、私が両親を好きなことに変わりはない。
私の親孝行は親を愛するという「見えない贈り物」かも知れない。でもいつの日か、大声で自慢してもらえるような息子に私はなりたいと思う。
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大学生・社会人部門賞
オモニとの約束
パート 李峰子43(大阪市)
30才を過ぎた夫が義母と同居することになった。義母が食事を作って待っているというのに、毎日飲み歩き午前様。
そんな夫だが、3、4年前だったろうか、義父と義母の墓参りを終え、場内にあるうどん屋で食事をしていると突然、涙をぽろぽろと流し始めた。
どうした事かと視線の先を見ると、そこにはまさしく、「ウリハルモニ」と思える高齢の方がうどんを美味しそうにすすっていた。その姿を見て泣いているのだ。
義母が初めて自分で外食したのが、今いるこのうどん屋なのだと言う。
幸せの原点
鉄工業 孫致憲67(京都市)
父は時間があればいつも新聞を横に置いて、その文面を模写していました。ただひたすらに新聞記事をそのまま書き写すのです。
私は父と一緒に居て、その情景を見るのが一番好きで、幸せだなあと感じたものでした。これは健康でなければできません。そんな雰囲気で模写している父を見て、ああ何時何時までも永遠に続けて欲しいと願ったものでした。
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中学生・高校生部門賞
電子レンジがなかった頃
高2 尹志元17(東京都)
母はご飯だけは冷たいものを食べていた。その行為から母の愛情を感じ、私を何とも言えない不思議で、暖かな気持ちにさせてくれることに気付いたのである。
その時から(電子レンジを買うまで)私は冷たいご飯を食べるようになった。母はそんな私を見て、首を傾げながら炊き立ての温かいご飯を食べる。そんな母を見ると冷めたご飯も炊き立て並みに温かく感じられた。
母の為に何かできたことが、正直我ながら偉いと思った。
孝道
中3 趙暎和15(大阪市)
親はもっと子供のことを知るべきだし、子供もまた同じように自分の親をよく知るべきである。これが「孝道」の基本である。「孝道」は子供の親に対する一方的な尊厳の行為であると思われがちだが、もしそれが本当だとしたら「孝道」は極めて困難なことになってしまう。昔と今では社会の成り立ちも随分と違っている。現代社会における「孝道」は、「子供は親に対して誠意をつくせ」ではなく、「子供と親は互いに理解し、共に思いやりを持て」なのである。
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小学生部門賞
ウリオンマ(私の母)
小5 石黒 弘佳11(静岡市)
私は時々オンマの日本語が変な時に、何も考えずに「オンマの日本語変だよ!」と強く言います。一生懸命、頑張っているオンマのことを、ひどい言葉で傷つけてしまう私が情け無いです。
オンマは私が韓国語を間違っても、一度も変な顔をしたことがありません。それと間違っても何を言いたいかをよく分かってくれます。
そして韓国の歌や踊り、昔話、風習など、色々なことをたくさん教えてくれます。
今、いるべき場所、姿でいること
小5 金保恵11(大阪市)
親孝行とは、むずかしくて、遠いところに答えがあったわけではなく、とってもやさしくて、近くにありました。それは、子どもを思う親の愛を、そのまま受け入れることだと思いました。
そして、親孝行とは、辞典の中に書いてあることではなく、コンピュータで調べられることでもありません。
また、特別な日にいきなりおとずれることではなく、とつぜん作りあげる形あるものでもありませんでした。
それは、すぐそこにある温かい心に思いっきりだきついて、今いるべき場所、あるべき姿でいることだと思います。
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入賞
親孝行について
小6 成希志12(大阪市)
私は水泳は苦手ですが、英語は大好きなので、ペラペラしゃべれる人になりたいと思いました。今度はお父さんに対しての親孝行を考えて見ました。そしてお父さんにも「私が大きくなって、どんなことをしたら親孝行になる?」と聞いて見ると、お父さんは「自分の夢をかなえられたら親孝行になる」と言いました。
だから結局、私の親に対する親孝行は、自分の夢である同時通訳者になることだと思います。
母と私と音楽
高3 全敏亨18(大阪市)
高校3年生の最後の夏、私は吹奏楽コンクールに向けて一生懸命練習していました。本番で母がそのソロを聴いてとても上手だったと涙する姿を見て、私はあきらめきれないプロのサックス奏者への道を相談しました。
すると母から予想もしなかった返事が返って来たのです。それは「あなたがサックスを吹いて、私がそれを聴く。それが一番の親孝行やで」。その時私は、世の中お金がすべてじゃないという言葉の本当の意味を知ったような気がしました。
親孝行
主婦 朴明粉56(宝塚市)
危篤の電話がありました。駆け付けると、最後まで母の世話をしてくれた兄が、堂々として見えました。でも通夜、告別式と続く中で、兄がとても疲れたようにも見えました。
それから、たった10日後のことでした。その兄が急死したのです。母と同じ病院で、肝臓癌の末期でした。
亡くなってから兄の机の引き出しから医学書が出て来ました。
頭の良い兄は母を先に送ってからと計算をして、最後の最高の親孝行を終えて、母の忌明けまで兄弟・姉妹に楽しい別れを告げてから逝ったのです。
自慢の兄らしい生き様でした。
(2005.2.23 民団新聞)