掲載日 : [2002-11-27] 照会数 : 6325
尹奉吉義士殉国70周年、来月記念式典(02.11.27)
[ 金沢にある尹奉吉義士殉国記念碑
] [ 尹奉吉義士 ]
尹奉吉義士殉国70周年、命日の来月19日に金沢で記念式
新たに記帳台など設置−募金も幅広く呼びかけ
日帝時代の1932年4月、上海で行われた天長節兼先勝記念式典の会場で日本軍首脳らに爆弾を投げて多くの死傷者を出し、その後銃殺された独立闘士・尹奉吉義士の殉国から70周年を迎える。19日の命日には、民団などで構成される記念事業実行委員会が犠牲の地となった金沢の野田山墓地の記念碑前で義士の犠牲を痛みながら業績を忍ぶ催しを開く。
尹義士は1908年の忠清南道生まれで、当時の韓日関係は、1905年には乙巳保護条約で日本に国権を奪われ、1910年には韓日併合が強要されるなど日本の韓半島侵略の真っ最中の時期だった。少年から青年時代を侵略のまっただ中で暮らし、多くの愛国闘士が抗日救国闘争を繰り広げていた時期でもあった。
抗日・独立の機運は全土を包み、1919年には全国で200万人以上が立ち上がった民族の独立運動史に輝く3・1独立運動を繰り広げたが、日帝の激しい武力弾圧によって死者数万人投獄者5万人にも及ぶ犠牲者を払った。
尹義士は、民族の解放と自由平等を願いながら、1930年に上海に渡り、日本軍の大陸侵略を阻止する機会を待った。
1932年4月29日、日本軍の中国上海事変戦勝祝賀兼天皇誕生日祝典が上海の虹口公園で行われることを知った尹義士は、日本軍関係者が居並ぶ演壇に向けて水筒型の爆弾を投げ、上海派遣軍司令官、駐日公使らを死傷させた。自爆しようとしたが果たせず、日本上海派遣軍憲兵隊に逮捕され、死刑判決を受けた。日本に押送され、同年の12月18日に金沢陸軍刑務所に移管され、翌19日午前7時40分、金沢郊外の三小牛工兵作業場で銃殺された。25歳の若さだった。
義士の義挙は、すぐさま全世界に伝わり、日帝の侵略行為を明らかにするとともに、幅広い独立闘争の支えとなった。
義士の遺骨は14年間、金沢の地下に放置されていたが、光復の翌日の45年8月16日には義士の遺骸奉安委員会が結成され、翌46年3月9日、在日同胞青年の賢明な努力で発掘され、同年5月に祖国に奉還され、国葬の後、ソウルの孝昌公園に安葬された。
1992年の60周年時に野田山墓地に、本国の推進委員会と民団などの力により尹義士殉国記念碑が建立された。70周年に当たる今年は、記念碑の建立趣旨を日本語で表記したパネルと記帳台が新たに設置される。
実行委員会では、多くの同胞や趣旨に賛同する市民に記念事業のための募金を呼びかけている。
募金は、次の口座で受け付けている。
▽北陸商銀信用組合金沢支店・普通口座026845/尹奉吉義士記念事業基金▽郵便振替・00750-9-52926/ユンボンギル義士記念事業基金
(2002.11.27 民団新聞)