掲載日 : [2007-07-25] 照会数 : 7190
<社説>30周年運動と青年会の原点
同志的な紐帯は民団の柱
在日韓国青年会は9月に韓国で、500人規模の青年ジャンボリーを開催する。これを機に同胞青年を掘り起こし、結集すべく全国キャラバンを展開した。一方、「青年会OB全国連絡会」が発足(2月)し、卒会者が民団により積極的に関わるよう後押しする。ともに、青年会中央結成30周年を期してのキャンペーンである。
青年会の構成員対象は引き続き減少傾向にある。帰化や日本人との婚姻の増加、出生者の自然減など要因はさまざまだ。民団の次代を担う青年会は、同胞の将来に鋭敏である。OB会が結成されたのも、青年会が民団組織に多くの人材を輩出しながらも、歴代活動者の陣容に比べればなお不十分であり、このままでは青年会創立の意義が風化しかねないとの懸念からだ。現役・OBともに危機意識を隠さない。
青年会の歴史的節目が重なるこの1年は、民団にとってこそ、そもそも青年会はなぜ結成されたのか、今後どのような役割を果たせるのかを考える貴重な機会となろう。
苦渋の選択経て
民団は72年7月、断腸の思いで韓青(在日韓国青年同盟)・韓学同(在日韓国学生同盟)の傘下団体認定を取り消し、8月には青年局を新設して、地方本部単位の青年会づくりに着手した。
全国民団の決意は堅く、4年間で49の地方本部を結成、77年の2月には中央本部を発足させた。そして同年8月5日、長野県で開催された青年会サマージャンボリーに全国から約800人が結集、民団青年運動の再建を強く印象づけた。
その8日後には「8・13池之端事件」が起きている。韓民統(韓統連の前身)が主催したいわゆる「海外韓国人民主運動代表者会議」に抗議し、これを粉砕すべく立ち上がった青年会員76人が警察当局に拘束されたのだ。この事件は、民団青年運動がなぜ断絶し、青年会を通じて再建されるに至ったのかを象徴的に示すものであった。
72年の民団中央団長選挙に必勝を期して臨んだ総連フラクションは、敗北するや直ちに民団自主守護委員会を結成して民団の分裂を図り、民団幹部に対する監禁・暴行や東京・神奈川本部などの民団施設を不法占拠するなど、集団暴力に訴えて民団を機能麻痺に陥れた。この一連の乱動事態は、民団を看板はそのままに、北韓への奉仕団体に変換させようとする画策によるものだ。その先頭に立ったのが韓青・韓学同であった。
民団から排除されたこの勢力が、看板をつけかえ韓民統を名乗ったのが73年8月である(韓統連に改称したのは89年)。池之端事件は、韓国民主化を名分に民団同胞を北韓路線の追従集団に仕立てようとするプロパガンダに対する、青年たちの憤りの発露であった。
民団自前の組織
ここで民団青年運動史を概括せねばなるまい。青年会以前の青年組織は、民団と相並び立つ存在であった。民団の結成と全国化に大きな役割を果たしながら、民団との統合を忌避した建青(在日朝鮮建国促進青年同盟)は、米ソ両国による信託統治の賛反をめぐって分裂し、発展的に解消して在日大韓青年団となった。
青年団は本国の大韓青年団と直結する組織体であり、旧建青を後継する流れからも民団とは一線を引いた。60年の韓青への改称後もその伝統を継承し、むしろ同年の4・19学生義挙によって啓発された2世を糾合、翌年の5・16軍事革命を支持した民団との亀裂を広げ、その後の紛糾へとつながる土壌をつくった。
しかし、70年代に入っての民団は、青年有志とともに初頭の危機克服をバネにセマウル運動、セ民団運動、総連系同胞墓参団事業などを相次いで展開、組織・理念を整備して質的な転換と躍進を見せた。それと同時進行で組織された青年会は、民団が初めて自前でつくった、民団化された青年組織と言って過言ではない。事実上の創建と言うべきであろう。
構成員と非構成員の垣根が低く、多様な価値観が許される民団にあって、青年会卒会者こそは、同志的な紐帯を積み上げてきた貴重な存在だ。70年代初と同質の危機をもたらした昨年の「5・17事態」を速やかに克服する上で、全国民団の指導的立場にある卒会者が池之端事件を想起し、独自のネットワークを駆使して大きな動力になったことがそれを雄弁に物語る。
青年会の現役とOBがそれぞれの持分を如何なく発揮することを期待したい。また、それを保障するためにも、民団全体が青年会をより力強く後押しするときである。
(2007.7.25 民団新聞)