掲載日 : [2007-08-15] 照会数 : 7283
<光復節特集>ネット世代のナショナリズムと在日
[ 大澤真幸(おおさわ・まさち)1958年長野県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授。専攻は社会学。主な著書に『行為の代数学』『性愛と資本主義』(青土社)、『戦後の思想空間』『虚構の時代の果て』(ちくま書房)など。今年6月には、15年の歳月をかけて考究した2000枚の大著『ナショナリズムの由来』(講談社)を出版し話題を集めている。 ]
大澤真幸 京大教授に聞く
日本ばかりでなく、韓国や中国も含めたネット世代の若者たちに、共通して「ナショナリズム」が強まっている。その理由に迫りながら、在日のナショナリズムについても聞いた。
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サイバー空間に飛びかうもの
グローバル化時代の副産物
普遍性の欠如突く
−−最近の日本では韓流がもてはやされる一方で、ネット空間では若者たちによる「嫌韓書き込み」が目立つ。在日にとって、韓日関係の未来を担うべきネット世代に、そうした傾向が見られることはとても気になる。
急速な普及で予想とは逆に
大澤 20世紀末の99年に台湾で「東アジアのナショナリズム」に関するシンポジウムがあった。そこで、オーストラリアのある学者が、80年代初頭の段階ではオーストラリアのたいていの学者は、21世紀に世界はますますボーダーレスになり、ネイション(国家・国籍)へのこだわりが減ると予想していた、と語った。
ところが、インターネットが急速に普及し世界はボーダーレス化しているのに、事態はこの予測とは逆の方向に進んできた。全く必然性がないように見えるにもかかわらず、ナショナリズムはむしろ強まっている。
分かりやすい事例として、ある若い日本人男優に注目したい。数年前、在日朝鮮人を主人公にした映画『GO』に主演した彼の、主人公に感情移入しての演技は好評を博した。もちろん物語の背景にある在日社会の現実や、歴史的背景も彼なりにしっかり把握しての熱演だった。
ところが彼はこの映画の出演以降、ナショナリストへ転身する。映画出演をきっかけに、在日の問題や現状を、平均的日本人よりは相当に理解していたはずであるにもかかわらずだ。ここに、若者たちに広まるナショナリズムと通底する現象が見える。
ナショナリズムの主張と同様に、インターネットでは数年前からいわゆる「サヨク(左翼)」攻撃が盛んだ。矛先は左翼・進歩的文化人や朝日新聞などだが、その理由を一言で言うと、サヨクは「偽善的、欺瞞的」だということにある。また、人間には「建前と本音」がつきものだが、サヨクは建前ばかりでどうも人間的に信用できない、と見ているとも言い換えられる。
ネット世代のナショナリズムは、かつての「国粋主義」ナショナリズムのように、国際的な情報に無知、あるいは国際的協調を無視したところから来るのではなく、国際的な情報をよく知り協調性にも理解があり、人類は平等で差別や偏見は「悪」であるということを承知の上でのナショナリズムだ。かつてのナショナリズムがネイションを何らかの程度で絶対化したことの結果だとすれば、今日のナショナリズムは、自分のネイションを徹底的に相対化した果てに出てくるナショナリズムである。
私は近著(『ナショナリズムの由来』)で、そのことを「アイロニカルな没入」という概念で説明している。「アイロニカルな没入」とは、分かりやすく表現すると「わかっちゃいるけど、やめられない」ということである。
若者のナショナリズムを理解するには次のようなことを考えてみるとよい。例えば学校では、校則によって規定された表ルールがあるが、学生たちにはそれに縛られない仲間内の裏ルールがあって、表ルールより裏ルールの方が大事だったりする。また優等生バッシングとか、クラス委員に優等生より不良の方が選ばれることが多いとか、そこにもサヨク・バッシングと共通する「欺瞞・偽善」を嫌うという意識がある。「欺瞞・偽善」ではなく、正直に本音をぶちまける人物こそ人間的だと考えている。「人権」や「平和」を訴える左翼的な言説が「表ルール」に、ナショナリズムが「裏ルール」に対応している。
彼らがインターネットで表現しているナショナリズム言辞の多くは、「便所の落書き」「クズ」程度のものがほとんどだが、インターネットだからこそ、その種のものがまさに「クズ箱」からあふれ出てくる。
「クズ」情報も無視できない
これまで、ニュースなどの情報提供者はマスコミにほぼ限られていた。そのマスコミ情報も、彼らは「偽善・欺瞞」に満ちているととらえる。それに対して、インターネットでは私的で本音の意見や情報が、何の制限も受けずに発信できる。「便所の落書き」は閉鎖された空間でしか見ることはないが、インターネットではマスコミ以上に多くの人々に「クズ」情報が提供され、その影響力ははかり知れない。そこが最大の問題点になる。
インターネットは情報のグローバル化、ボーダーレス化を実現したが、その交流の場に見合うような、信頼に足る価値ある情報が存在していない。いわばインターネット上の「普遍性の欠如」の隙間に、個人的落書きや友人同士の会話程度の情報がはびこり、そこにナショナリズムという、グローバル化した21世紀には消滅してもよさそうな「クズ」もはびこるスペースが広がった。
それは、もちろん日本だけの現象ではなく、日本以上にインターネットが普及している韓国はもちろん、急激に経済が成長し、制約はあるとはいえ情報社会が急速に広がった中国でも同様のことが起こりつつある。
説得力失った既成の価値観
ただし、グローバル化した社会―私は「資本主義がグローバル化した」ととらえているが―では、ナショナリズムを単に「クズ」として切り捨てたり無視したりできないと考えている。そのことにふれる前に、「資本主義がグローバル化した」現代社会で、普遍的価値が果たして存在しうるのかと問うたならば、見つけにくくなってきたと言わざるを得ない。
普遍的価値とは例えば、民主主義、平等主義、多文化協調主義、公共のため、世界のためというようなものだが、それらの価値のために一生懸命に働くという若者たちはほとんどいない。以前、NHKで『プロジェクトX』という番組があって、日本のさまざまな大規模プロジェクトを取り上げたが、テーマになったそのほとんどが昭和30年代、40年代の事例だ。
その頃、例えば「黒四ダム建設」のように関西電力という一企業の工事にもかかわらず、そこで働く人々は公共性とか天下・国家のためという普遍的価値を見いだすことができた。今、同様のプロジェクトを行うことは、環境破壊などのさまざまな大義や利害の衝突などで、まず不可能だろう。このように普遍的価値とされるものが、時代感覚に敏感な若者への説得力に乏しくなってきた。
もちろん民主主義、平等主義、多文化協調などの価値そのものが失われたわけではないし、若者たちもその重要性は認識しつつも、それらの価値が自分たちの心を衝き動かすものではなくなってきたということだ。先ほどの言葉を使えば、これらの価値が「表ルール」である。「資本主義がグローバル化」することにより、逆に普遍的価値に意味がないように見えてきて、ナショナリズムという特殊性の確認が、意味あることのように思え始める。それがたとえ「クズ」だとしても、無視できぬ理由がそこにある。
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東北アジアに共同体は可能か
見当たらぬ求心力
まず共同で「北」民主化を
−−最近、EU(欧州共同体)にならって、アジア地域、特に経済力が高い東北アジアで「共同体」ができないものかという議論が各国から出てきて、その流れにネット世代のナショナリズムは障害にならないかという指摘もある。アジアでの「共同体」についてはどう考えるか。
大澤 現状では、アジアでEUのような共同体づくりは難しいと思う。アジアのどこを見ても、文化的にアジアに本当にコミットしている人はいない。欧州の場合、一種の欧州ナショナリズムというものがあって、特に西欧文化こそ一番欧州的で、経済力だけでなく、どこまで西欧的かという文化的基準がEUの参加条件になっている。
一方で、EU以外へは排他的だ。アジアの場合、文化的によりアジア的であるということは、アジアでの求心力にはならない。かつて日本で「大アジア主義」や「大東亜共栄圏」が叫ばれたこともあったが、それらは日本の帝国主義支配へと転換してしまった。アジアで誰も本心から、アジア的文化、たとえば儒教文明の再興を願ったりはしていない。
日本の戦争責任の自覚を含めた、歴史認識の共有が東北アジアの「共同体」への基礎になるという意見もあるが、たとえそうなったとしても難しいと思う。ドイツの場合、欧州の戦争は西欧文化の中での兄弟喧嘩という側面があって、もちろんドイツの戦後処理は真摯に行われたけれども、ナチスという鬼っ子を断罪すれば西欧に復帰できた。
ところがアジアの場合、現在の韓国や中国もそして日本でも、アジアの兄弟たちから離脱したいというのが本音中の本音だろう。むしろ、日中韓の各国は、文化的「脱亜入欧」意識だけを共有していると皮肉を言うこともできる。そういうことよりも、具体的で緊急の共通課題を周辺諸国で協力して解決していくというところからアタックしていく方が、より実現可能性があるのではないか。
その共通課題とは、この地域最大の懸念事項である北朝鮮問題の解決、踏み込んで言えば北朝鮮の民主化だ。現在の核保有問題を話し合っている6カ国協議とは全く別次元の協議になる。北朝鮮と隣接している諸国の課題だから、この協議に米国は入らない。
89年に東欧が崩壊し、いっせいに民主化できたのは、西ドイツや周辺国が東ドイツなどへの情報発信や膨大な難民の受け入れなど、東欧民主化に協力した結果でもある。逆に言えば、東欧諸国が民主化したのに、北朝鮮が取り残されたのは、周辺に真の協調への意欲がないからだ。北朝鮮の民主化への過程は様々に想定できるが、難民流出などの人的リスク、インフラ整備など経済的リスクは、韓国だけでなく国境を接する中国やロシアも相当に覚悟しなければならない。
とりわけ日本は、朝鮮半島の分断について最大の責任を負っているという自覚のもとに、最大限の貢献が必要だ。戦前は大日本帝国領土の一部であった朝鮮半島の分断は、北海道の分断占領の身代わりでもあったと考えれば分かりやすい。
北朝鮮の民主化は、多くの在日にとっても最大のテーマのはずだ。道程は長いかもしれないし、あるいは東欧のようにあっけないものかもしれないが、何より周辺国最大の課題として在日も含めて共同で取り組むことの中から、地域の相互信頼が生まれると思う。
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険しい尾根道を行く在日だが
対抗軸として存在感
新たな普遍性の開拓でも
−−近著『ナショナリズムの由来』の中で、在日作家・金鶴泳を取り上げた。在日2世の彼を「境界の人」と呼んで、彼の意識や作品の中に在日ナショナリズムらしきものを見いだしたようにも読み取れたが、在日にとってのナショナリズムとはどのようなものなのか。
大澤 38年生まれの金鶴泳が作家として活躍していたのは60年代後半で、その後85年に惜しくも自殺した。2世世代としては比較的早い生まれの方で、それだけに彼が抱え込んだ問題意識は、その後に在日が直面した課題を先取りしたところもあるように思う。
彼が成長し作家として活躍し始めていた頃、日本社会の在日への差別や偏見は今よりずっと強かった。当然、彼は在日として日本社会から疎(うと)んじられていると感じていた。家庭では凶暴な父親との軋轢(あつれき)、民族運動に奔走する兄との齟齬(そご)、そして、妹2人は帰国運動で北朝鮮に帰っている。こうした環境による疎外感や不遇感は、彼の場合は、吃音という直接に身体的な症状として現れている。吃音をどう克服するかの問題と在日という境遇とどう向き合うかという問題が重ねあわされているところに、彼の文学の特徴がある。
在日にとって、日本社会のナショナリズムの風圧の中で暮らしているという事情から、母国(韓国・朝鮮)のナショナリズムに身を委ねるということは、当時としては当然のことだった。母国で生まれた1世世代にとってはとくにそうだ。ところが2世世代の彼は、兄が奔走する在日組織の民族運動と共産主義運動に全くなじめない。かといって、自分を疎んじている日本社会に同化することも出来ない。
彼は、両側が鋭く切り立った鋸(のこぎり)の歯のような尾根道を、まさに在日としての狭い狭い境界の尾根道を、ヤジロベェのように平衡をとりながら歩き続けていた。それは至難の道程だった。そして、彼はどちらの斜面へ転がることもなく、自ら命を閉じてしまった。
母国に尻尾がつながる1世世代を除いた2世以降の世代には、金鶴泳の先駆的な苦悩は理解できると思う。在日ナショナリズムがあるとするならば、この狭い境界としての尾根道ではないだろうか。しかし、この道を歩き続けるのは至難だ。
現在、在日の意識も多様化して、世代や個人によって様々だろう。実際には境界としての尾根道を意識しながら、様々な道筋を歩んでいるというのが実情なのではないか。片足はしっかり母国の側にある者、例えば姜尚中は「1世の記憶を大切に遺しておきたい」と語り、「在日朝鮮人は民族名を名乗るべきだという考え方に馴染めなかった」として竹田青嗣はあえて日本名で通し、半身を日本側に寄せているように見える。
その意味でも、在日という存在は苦しい立場にあることは事実だろう。ただし、マイノリティだからこそ、普遍的価値が喪失した時代の、新たな普遍性を見つけやすい立場にいるとも言える。また、日本のナショナリズムに全面的にコミットしていないということは、そのプロテクト(対抗軸)としての存在価値も持っていると言えるのではないか。
(2007.8.15 民団新聞)