掲載日 : [2009-11-05] 照会数 : 9111
フラッシュ同胞企業人<43>古紙再利用の先駆
[ 1936年京都生まれ。6歳の時に岐阜県恵那市に移住。県立恵那高校卒。66年に東栄製紙工業を創業。民団恵那支部支団長。2男2女、孫11人。 ]
ダンボール原紙メーカー
東栄製紙工業の李光煥会長
ダンボールの素材となる原紙を製造する。最も軽量の「内装ライナー」を手掛け、工場内には円柱形のライナーが所狭しと並ぶ。
「創業から40数年、一貫して古紙を原料に100%再生紙の製造に力を注いできた。世界的な環境保全の見地から、再生紙の有益性が再認識されているだけに、ニーズは広がっている」。工場は24時間フル稼働。昨年の売上高は約30億円、社員数は64人。
1936年京都生まれ。6歳の時に恵那に移り住んだ。両親が鉄くずや古紙を集めながら、薪を束ねるワイヤーを作っていたが、学校を出てから親の稼業を手伝う。
残ったのは2社
古紙を扱っていた関係で小さな製紙会社を買い取り、66年に東栄製紙工業を創業。ダンボール用の原紙を作り、ダンボール会社を営む兄の会社に納品した。
「韓国人だったために、資金や人集めに苦労した」。先輩から「一番難しいところから工面しては」とのアドバイスに従い、公的資金を借りようと、「県の保証協会に何度足を運んだかわからない」。努力のかいあって、協会で100%の保証をしてくれた。
日本の好景気に便乗し、73年に当時の業界最大幅(3150㍉)となる製紙機械を導入した。ところが、オイルショックの影響で減産を強いられる。
「顧客開拓のため、西は大阪から広島、東は東京、福島まで走り続けた。鞄を抱えながら大阪の街を歩き続けた記憶が忘れられない」
生活必需品ということもあって、政府支援策が取られ、徐々に持ち直していく。85年に全ライン自動化により作業の効率化を図った。
「原料にパルプを使った大手企業には太刀打ちできないので、もっぱら薄い紙の製造に特化してきた。切れやすく、製造スピードの加減が難しいため、高度な技術が欠かせない。この技術のおかげで生き残ってこられた。実際、同業36社あったのが今では2社が残っているにすぎない」と競争の厳しさを語った。
民団の支団長も
商品自体の包装用として物流用には使われない「内装用ダンボール」から、みかん箱や家電製品など輸送用に利用される「外装用」に切り替えていった。「業界初の試みで、その切り替えには苦労したが、98年から本格的な生産を開始することができた」
排水処理設備を増設すると同時に、3年前からは環境・経済性の観点から、機密書類溶融システムを本格的に稼働させた。役所や税務署、銀行などのぼう大な書類を完全に溶かし、リサイクルする。これも業界初だ。「信頼がないと発注されない」
学校にピアノを寄贈したり、テニスコートを作るなど、地域にはさまざまに貢献する。「PTA会長やライオンズクラブの会長なども務めた。地域では差別がない」
民団恵那支部の支団長を79年から30年間務めている。「支部の会館はあるが、当社が支部代わりをやってきた。少しでも余剰金を財源の積立金に回している。同胞が少なくなる状況の中で、韓国の戸主制廃止に合わせて、団費納入者を世帯から個人にすべきでは」と訴える。
◆東栄製紙工業(株)岐阜県恵那市大井町321‐4(℡0573・26・0070)
(2009.11.5 民団新聞)