掲載日 : [2003-09-25] 照会数 : 5841
在日同胞に対する民族教育の明日のために-①-(03.9.24)
黄迎満民団中央副団長
「問い」に正面対応必要…意味・内容、新たに定立へ
黄迎満民団中央本部副団長が第40回在日本韓国人教育研究大会(8月19、20日)で行った主題講演「在日同胞に対する民族教育の明日のために」(全文)を4回に分けて紹介します。
1、はじめに
私たちはいつも在日同胞の教育を語る時、なぜ民族教育というのか、そして一体、民族教育とは何か、これは常に在日同胞の民族教育に関連と関心ある人々について回る問題です。
万一、本国におられる方や、本国で教育に従事されている方々には、「国民教育」や「人間教育」(という言葉)はあるかもしれませんが、「民族教育」という言葉を使うことはなく、この言葉を聞く時、聴きなれない言葉という印象を持つことでしょう。
民族教育とは、結局は異民族社会に住んでいる同胞が、自民族の正体性(アイデンティティー)を知り、これを精神的な柱とし、異民族と共生しながら競争に勝ち、堂々と生きていくための教育のことをいうと思います。
在日同胞の民族教育の出発は、1945年の解放とともに日帝時代に奪われた「ウリマル」を取り戻す運動として、雨後のたけのこのように自生的に生じた「ウリマル講習所」であったと言われています。その当時(解放直後)、強制連行された人々とその子弟の帰国が列をなしていました。特に日本で生まれた子弟が、祖国に行って生活できるように「韓国語」を急いで教える必要がありました。
1950年、同族相殺の悲劇的な「6・25動乱」が起きました。やむを得ず、日本に当分間居住しなければならない同胞からすれば、いつの日か帰国する時のために、子弟にわが民族の歴史、言葉と文化を教えなければならないと考え、本格的な「民族学校」を建て始めました。
しかし、実際帰るはずの祖国は、国際的冷戦体制により分断が固定され、軍事的対峙とイデオロギー対立が熾烈でした。その上、経済的にも戦争被害のため苦境に陥っていました。このような韓半島の情勢が、同胞の民族教育にも影響を与え、イデオロギー的な対立が入り込み、民族学校も二分されました。そのようにして在日同胞の民族教育が半世紀以上も分裂したまま今日に至っています。
21世紀に入った今、日本における民族教育とは何か、という問いに正面から対応しなくてはならない時期にきました。今後の在日同胞社会の発展に、民族教育が持つ意味と価値をもう一度確立する必要があります。
このような意味から、在日同胞の民族教育の明日のために、いくつかの問題提起をしたいと思います。
2、民族教育をとりまく環境変化
民族教育を取り巻く環境と条件は大きく変わっています。特に、80年代中盤から90年代にかけての状況と条件の変化は、急激な質的変換をもたらしました。21世紀に入った今日の在日同胞社会の民族教育は、韓国系、総連系を問わず、その存立根拠が揺らいでいます。 在日同胞の民族学校は、生徒数の激減、深刻な財政難、時代の変化についていけない教育内容等々で存続自体が問題になっています。
なぜこのようになったのか、そして問題の原因は何なのか。まずは同胞社会の変化の中から原因を探すことができると思います。
はじめに、同胞社会の世代交代にその原因を見ることができます。同じ民族だけで生きる共同体の中の世代交代が連続的だとすれば、異民族の中に生きる民族の世代交代は非連続的な側面を強く持っています。1世が、生まれた時から身につけたウリマル、風俗、習慣等々、民族的な特性を体で体現した世代とすれば、2・3世は間接的に言葉を聞いて、目で学ぶ世代です。さらに彼らの90%以上が日本の学校に通ったという点からすると、世代交代が民族的な特性の断絶を意味するようになります。
言うなれば、1世は自分たちがまさに民族であり、祖国であるという一体感の中で生きてきたとすれば、2・3世は抽象的な国家意識と相対的に遠い祖国、そして希薄になっていく民族意識等により、民族的な特性を堅持するのが難しい世代です。同胞社会の現実は、このような2・3世が4・5世を教育しなければならない立場にあるのです。
2番目としては、同胞社会の共同体としての構成員の減少をあげなくてはなりません。日本社会と同じく、同胞社会も少子化の傾向が顕著(自然減)であり、その上、日本人との婚姻がほとんど90%に近く、さらに80年代後半からは帰化者が毎年1万人前後に増加しています。
このような傾向は、量的な面で在日韓国人社会の存立自体に危機意識を引き起こしています。きわめて悲観的に見る人たちは、あと10年経てば、同胞社会は消滅するだろうと言います。それとは別に、ウリマルも文字もわからないけれど、本名で日本社会で活動している3・4世の動きなどを見ると、量は確かに減っているかも知れないが、質(民族的な自負心を持って生きる)的に高い一定した量が残っていくだろうと指摘する人たちもいます。
3番目には、同胞たちの価値観の変化とライフスタイルの変化にその原因を見つけることができます。冷戦時代が幕をおろし、IT技術の発達で高度情報化社会に生きる同胞は、日本社会と国際社会の変動に圧倒的な影響を受けて生活しているため、価値観とライフスタイルも大きく変化しています。解放以後、80年代まで通用していた集団的価値(民族とか国家)よりは、個別的な価値(個人の人権とか自由)がより一層重要視されています。
また、一元的な理念的価値(社会主義あるいは自由民主主義等)よりは多元化された価値(生活化された日常的価値)を大切にする傾向などを見ると、今や一元的で集団的な価値の実現よりも、個人的で多様な「自己実現」を重視しています。 ライフスタイルの面でも、IT技術の高度な発達により、生産、流通、消費にいたるまで社会変革が進み、個別化、個性化、特殊化されていきながら「自己表現」に重点を置くスタイルに変化しています。
4番目に、同胞も国際化の流れの中で意識と生活スタイルも変わっています。物流の国際化、国際的な人的交流そして知識の国際化など、IT技術の発達による国際化は加速化しています。さらにインターネットを通じて情報交換、事業展開、知識の吸収などで国際的な活動を展開しています。
以上のような同胞社会の変化は、「民族教育」とはいかなるものかということを、新たな次元でその意味と内容を新しく定立しなくてはならないという課題を私たちに与えています。
(2003.9.24 民団新聞)