聖路加国際病院 日野原重明名誉理事長
テノール歌手 ベー・チェチョルさん
聖路加国際病院(東京・中央区)の日野原重明名誉理事長と甲状腺がんから復帰を果たした韓国のテノール歌手、ベー・チェチョルさんは、音楽を通して世界平和へ貢献したいと活動している。13年、初めてベーさんの歌声を聴いたとき「神様の存在を感じた」という日野原さんは、ベーさんの歌を多くの人に届けたいと自ら演奏会をプロデュースし、一緒に舞台に立つ。敬虔なクリスチャンでもある2人は先月、東京都内で開かれた会見で平和への思いを語った。
2人は行動の友
日野原 今年10月で104歳になります。ベー・チェチョルさんと最初に会ったのは、名古屋の友人が私の102歳の誕生日を祝う会でベーさんの歌を聴かせたいからと名古屋に呼ばれたときです。ベーさんの歌を聴いてとても感動し、ファンになりました。
翌年には私がプロデュースし、ベーさんが歌うイースター(復活祭)コンサートをウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会(東京・新宿区)で開きました。
ベーさんとの出会いを通じて2人は心の友だちになり、それからベーさんの歌を通して、世界平和につなげるため一緒に行動しようと考えるようになりました。
再び授かった命
ベー 漢陽大学声楽科を卒業後、東亜日報が主催する音楽コンクールで優勝して、イタリアに留学しました。
日野原 父はプロテスタント教会の牧師で、私は10歳のときに洗礼を受け、ピアノを始めました。小学校4年のとき、腎臓炎で自宅療養中にアメリカ人宣教師の奥さんから4年間、ピアノを教わり、作曲も独学しました。医学部1年を終えたときに結核で1年、闘病生活を送りながら、レコードを聴いて五線紙に書き記していました。
オペラを聴くのは好きです。文化勲章(2005年)を受章したとき、私の希望で歌ってもらったヘンデル作曲の「オンブラ・マイ・フ」を、私が102歳の誕生日のときにベーさんが歌ってくれたことから、まるで2人が一つの体であるような気持ちになったのです。
音楽というものは人間に神様が与えられた賜であり、人と人の心をつなぐのに大きな力を持っていると信じています。 よど号事件は1970年に起きました。福岡で開かれる日本内科学会総会の理事会に出席するために搭乗した日本航空機のよど号が赤軍派に乗っ取られ、北朝鮮のピョンヤン(平壌)に連れていかれるところ、山村新治郎運輸政務次官が身代わりになり、私たちは金浦空港で解放されました。 このとき命は1回、なくなったけれども、神様から再び与えられたと思い、これからは世界の平和のために私の命を使いたいと考えました。 ベー 声楽家が声が出ないということは、死刑判決を受けたようなものです。私は一度、死んだも同然です。医学的に二度と歌えないと言われましたけれど、神様によってもう一度、歌えるようになったのです。
日野原 ベーさんの声が出なくなったときに出会ったのが、一色信彦先生という京都大学の声帯手術の大家です。その出会いによって手術が成功したベーさんは、神様に感謝するために、これからの人生を生きようと決意されたのではないでしょうか。
韓日のためにも
ベー 戦争を経験した両親から多くの話を聞きました。結果的に言うと、お互いに傷や痛みを与えるのが戦争だということです。
日野原 日本は真珠湾の攻撃でアメリカと戦争を始めました。アメリカに留学したことのある父が「この戦争は日本が負けるよ」と語っていました。この攻撃によって始まった太平洋戦争は、アメリカが原爆を投下したことで終結しました。
ベー 日野原先生がおっしゃる平和というのは、先生が信じておられる神さまに対する愛と言えるでしょう。なぜならキリスト教の観点から見た平和というのは、そこに愛が存在しているからです。
韓国と日本は近くて遠い国と良く言われます。今は戦争はありませんが日本と韓国はお互いに信じられない、という関係にあります。音楽はすべての人に伝わっていくものだと考えているので、感動を土台として私たちが関係を築いていくならば、韓国と日本の関係はもっとよくなるはずだと確信しています。
日本で声帯の手術を受けたことで、第2の音楽家としての人生を歩んでいます。私にとって日本はとても重要な国になりました。お互いの国を理解しようという心が大きくなっていくために、私たちは活動を続けていきたいと願っています。
(2015.8.15 民団新聞)