第11回MINDAN文化賞 受賞67作品が決定 | |
応募総数972点 民団中央本部主催「第11回MINDAN文化賞」の審査がこのほど終わり、入賞者が決まった。今年は「孝道」「論文・論壇」「詩歌」「絵画」「ウリマル普及標語」の5部門が行われ、受賞は67作品。絵画部門・中高校生の部と詩歌部門・小中高校生の部で最優秀賞が誕生し、優秀賞は各部門合わせて21作品が選ばれた。 | |
◆孝道部門 | |
▽小学生 【佳作】禹弦進(小2・東京)、朴苑恵(小5・大阪)、禹 序(小5・東京) ▽中・高校生 【優秀賞】李恩瑞(中2・東京)、朴珠希(高1・東京) 【佳作】金嘉倫(中1・京都)、李是恩(中3・東京)、白種原(中3・東京)、李海揆(高1・東京) ▽大学生・社会人 【佳作】朴裕子(会社員・愛知)、宋承美(会社員・大阪) | |
◆論文・論壇部門 | |
▽論壇 【奨励賞】尹智美(会社員・広島) | |
◆詩歌部門 | |
▽小中高三行詩 【優秀賞】金チョロン(小6・東京) 【佳作】康莉(小4・東京)、鈴木飛安(小6・大阪) ▽小中高時調 【優秀賞】金恩智(高2・大阪) 【佳作】金智雅(中3・大阪)、李熙周(中3・東京)、金昇垣(高3・大阪) ▽大学生・社会人時調 【優秀賞】金宥成(会社員・東京) ▽小中高俳句 【優秀賞】李昇祐(小3・東京)、倉重凜(中2・大阪) 【佳作】姜佳那(中1・大阪)、許玲実(中3・大阪)、下岡宏治(高3・大阪) ▽大学生・社会人俳句 【優秀賞】金光子(主婦・群馬) ▽小中高短歌 【優秀賞】大山愛莉(高2・大阪)、金歌姫(高2・大阪) 【佳作】権奎李(中2・東京)、具英香(高2・大阪) ▽大学生・社会人短歌 【優秀賞】朴英子(主婦・兵庫) 【佳作】郭節子(主婦・大阪) ▽小中高自由詩韓国語 【最優秀賞】李周衍(中1・東京) 【優秀賞】梁榮(中3・東京)、金璘我(高1・東京) 【佳作】呉知勲(中2・東京)、羅智允(中2・東京)、朴喜珠(中3・東京)、玉玎沅(高1・東京)、崔仁敬(高1・東京)、徐基綸(高2・東京) ▽大学生・社会人自由詩韓国語 【優秀賞】金泰沅(会社員・東京) 【佳作】姜嬉(主婦・東京) ▽小中高自由詩日本語 【優秀賞】金志湖(中3・東京) 【佳作】姜智順(小1・東京)、久冨泰智、(小5・大阪)、川上紗弥(小5・大阪)、成烈俊(中1・東京)、李泰炯、(中3・東京)、高恩妃(中3・東京) ▽大学生・社会人自由詩日本語 【優秀賞】後藤順(自由業・岐阜) | |
◆絵画部門 | |
▽小学生「韓日友好」 【優秀賞】申裕彬(小3・東京) 【佳作】沈侑怡(小3・東京) ▽小学生「韓食」 【優秀賞】金佳縁(小5・東京) 【佳作】金娜恩(小1・大阪) ▽小学生「孝道」 【佳作】奥平仁(小3・大阪)、金兌禧(小4・東京) ▽中高「韓日友好」 【最優秀賞】崔智好(高2・東京) 【優秀賞】金湞(高1・東京)【佳作】趙喜(中2・東京) ▽中高「韓食」 【優秀賞】金旼書(高1・東京) 【佳作】朴施垠(中1・東京) ▽中高「孝道」 【佳作】金道熹(高1・東京) | |
◆ウリマル普及部門 | |
【優秀賞】郭東民(小6・大阪) 【佳作】李普摞(小3・東京)、鄭潤聖(小6・東京)、盧恩貞(中3・東京) | |
時代を映した作品に感銘在日本大韓民国民団中央本部 団長 呉公太 | |
「第11回MINDAN文化賞」の実施にあたりご協力頂きました各界の皆様に、この場をかりて心より感謝申し上げます。『語り継ごう「在日」を』をテーマに開催してまいりましたMINDAN文化賞もこの度、第11回目の新しい扉を開くことができました。 これもひとえに各関係者の皆さま、そしてご応募頂きました皆さまのお陰でございます。 2004年に親孝行エッセイ「孝道賞」から始まった本事業ですが、その後、部門を広げ、今年は論文・論壇、孝道、詩歌、絵画、ウリマル普及の5部門に才能あふれる作品が多数寄せられました。 論文・論壇部門の入賞作品では在日同胞が抱える問題について、現行制度に対する指摘や私たち自身の意識の持ち方に関する考察が述べられており、現状を打破していく上で、様々な課題が示されています。また、孝道部門には祖父母や両親との暮らしの中で孝道を学び、実践しようとする子ども達の素直な気持ちが表現され、心温まる作品が多くありました。 詩歌、絵画部門においては、作者の思いが多彩な言葉、彩り豊かな絵で表現されています。とりわけ韓日関係の改善を願う絵画が多数寄せられていたのが印象的でした。 そしてウリマル普及部門ではウリマル、祖国に誇りを持ち、そのすばらしさを次世代に伝え、世界に発信しようという思いが伝わってきます。 在日同胞社会が形成されてから100年以上が経ち、私たちを取り巻く環境も時代とともに変化してきました。その中で在日同胞の皆さまが何を感じ、考え、求めているのか、MINDAN文化賞はそれらを知る手掛かりとなります。これから先、MINDAN文化賞が在日同胞の文化活動の拠り所となり、次世代が無限の可能性を開花させる場となれば幸いです。 今日、ますます複雑化する世界情勢の中で、古き良きものは語り継ぎ、新しいものを積極的に取り入れ、より良い未来へ繋げていくことが私たちの役目であると思っております。そして1人でも多くの在日同胞が韓国や日本にとどまらず、世界に向かって羽ばたいてくれることを切に願っております。 最後に厳しい審査の結果、各部門で受賞された皆様にお祝いの言葉を捧げ、同時にご応募頂いたすべての皆さまに感謝申し上げます。 | |
絵画・最優秀賞 崔智好(高2・東京) | |
孝道部門 優秀賞 | |
おばあちゃん、一緒に歩きましょう 今年の夏休み、私は久しぶりに韓国旅行に行ってきました。久しぶりの韓国旅行だったため、毎日何をして遊ぶかをスケジュールまで用意して、徹底的に計画していきました。 羽田空港に到着した後、孫娘たちが来るのを待っていらっしゃるおばあちゃんに先に連絡をしました。飛行機に搭乗する前まで、私はずっとおばあちゃんに連絡をしながら今回の旅行を楽しみにしていました。 金浦空港に到着した後、私の家族は、空港でタクシーに乗り急いでおばあちゃんの家に向かいました。おばあちゃんの家は、私が去る前の3年前とあまり変わってないように見えました。 私が座っていたソファーも、私が見ていたテレビも、それに私が使っていた食卓まで。すべて私の記憶の中に残っていたものと同じにみえました。 特に違和感は感じなかったから、荷物を解いて服を着替えた後、夕食を食べることにしました。おばあちゃんは家族のために美味しい料理をいっぱい準備してくれました。 久しぶりに会ったおばあちゃんと嬉しい挨拶を交わしながらご飯を食べていたところ、ふと、私は玄関の方で一つ、目新しい変化を発見しました。それはなんと歩行器でした。 家に入った時は、ソファーで私たちを待っていたおばあちゃんだけが見えたせいか、全く目に入らなかったのです。 私はびっくりしておばあちゃんに聞きました。おばあちゃんには歩行器が必要ないじゃないかと。日本で安否の電話をいただいたら、いつも変わりないとだけ言ってくださって、私はおばあちゃんが元気に過ごしているとばかり思っていました。 しかし、おばあちゃんは実は最近、腰が痛くなり、長い時間歩くことが困難になったので歩行器を一つ買うようになったとのことでした。 いつも元気だと言っていたおばあちゃんだったのに、そのおばあちゃんに急に歩行器とは、私にとっては信じられない光景でした。 その瞬間、私が幼い時おばあちゃんが私の乗ったベビーカーを押して町のいたるところを回った記憶がよみがえりました。 大きなマンション団地内にあった公園、そして公園から家に帰って来る道にあった青々とした木々やヒマワリが、夏がやって来たことを知らせてくれたりもしたその記憶が走馬灯のように浮かびました。 そして、おばあちゃんは時間が流れて私が日本に去った後からは、孫娘たちがたくさん恋しくなる時は、その歩行器を使って外に出て、あの時一緒に歩いた道、一緒に行っていたスーパー、塾からの帰り道に出迎えにいらっしゃっていたバス停、その近くのトッポッキ屋などを散歩するそうです。そういうふうに1周回れば、今引きずって歩いている歩行器が昔私を載せていたベビーカーのように感じられ、寂しさを抑えることが出来るといいました。 私は話を聞いて驚きと心配でどうすればいいか戸惑いました。これまで痛くて大変だったのに、家族のために蒸し暑い夏の数日間、数えきれないほど市場を行き来しながら美味しい料理を準備してくださったおばあちゃんは、私が電話するたびに家族たちが心配するかもと思い、いつも黙って笑いながら家族の話を聞いたのでしょう。 しかし、忙しかったり試験勉強をしなければならないという言い訳で、私はたまにしか通話せず、それも短い通話で安否だけ聞き、すぐおばあちゃんとの電話を終えてしまっていました。また、韓国での私の日程中には自分のための時間でいっぱいで、おばあちゃんとの時間は極めて少なかったり、ない日も多かったりしていました。 その夜、寝床に入ろうとしていたところ、昔から大人たちがいつも言っていた「親の愛情」という言葉を思い出しました。 おばあちゃんはいつも変わらずヒマワリのような心で私への愛情を抱いてくれていますが、それに比べて私は、いつもその胸の中で愛されて笑っているだけで、おばあちゃんに愛と真心を伝えなかった自分の未熟さに本当にイラつき、また、後悔しました。 多くのことを感じた韓国旅行の後、おばあちゃんの歩行器はまだおばあちゃんの家の玄関に置かれています。おばあちゃんは今もそれを使って、あの道、あの店、あの公園に行っています。 おばあちゃんと私の間の唯一の変化、歩行器は大きくなってしまった私とベビーカーの代わりに、おばあちゃんと一緒に思い出の道を歩いています。 おばあちゃんと私は遠く離れていますが、おばあちゃんがもっと幸せになりますように、私が今までもらった愛をお返しできるように、おばあちゃんと共に歩行器に頼って一緒に歩いていきたいです。 | |
孝道部門 優秀賞 | |
今は懐かしい孝行の墓参り道 今は幸せな思い出として残っている数年前の出来事だ。白 島の祖父のお墓参りの時、祖母と家族が幸せにお盆を一緒に過ごした時のアルバムを見ながら思い出にふける。当時はどうしてあんな遠くまで、海外や韓国全道から親戚が集まり、必死になってお墓参りに行くのか分からなかった。親戚に会う喜びはあったけど、当時の私はあまりにも長い道のりと、ひどい船酔いがとても辛くて面倒だと思っていた。 幼い頃は、学校が休みになると必ず兄と一緒に白 島へ行き、祖父母と過ごし、私にとって白 島はとても楽しい場所だったのに。白 島までの道のりはものすごくつらいのだ。 日本に住んでいる私たちは、早朝から大きなトランクを引きずりながら、仁川国際空港へ行き、さらに仁川で一晩を過ごしてから船に乗ってようやく白 島へ行ける。日本でどんなに朝早くから出発しても、24時間以内に白 島に到着することはできない。しかも天候条件が悪ければ、天候が良くなるまで、仁川旅客ターミナルでただ待つしかないのだ。 このような状況にもかかわらず、両親は祖父のお墓参りに行くこと自体が大事な親孝行だと言う。また、こうやって家族みんなで行けるのがとても幸せなことだという。 特に父は日本の静かな親孝行よりは、韓国の行動的な親孝行を学んでほしいと言う。父が伝えようとしたのは、心の中で思うだけの親孝行よりは積極的に行動で表す親孝行を意味するのだと今はわかる。祖父のお墓がある白 島について少し紹介すると、白 島は本当に美しい島だ。西海五島の最北端の島で、韓国で8番目に大きい島だ。北朝鮮にもとても近いので軍事的な要衝地でもあり、白 島行きの高速船はいつも軍人たちでいっぱいなのだ。 4時間ほど船にのっていると小青島、大青島を経て、白い鳥が翼をたたんでいるように見えることから、白い羽根島と呼ばれている白 島が姿を現す。晴れた日は北韓の土地が一目で見える。龍起浦港に船が着くと強い海の香りとともに、驚くべき浜辺が目に入ってくる。 白 島は普通のやわらかい砂ではなく硬い珪岩の粉でできている。このような海辺は全世界で、イタリア・ナポリビーチと白 島サゴッビーチだけしかないのだそうだ。白 島サゴッビーチは韓国の天然記念物391号である。 サゴッビーチは珪藻土ビーチで、海辺に飛行機の離着陸が可能な天然飛行場だ。他の海岸では想像できないけど、サゴッビーチでは毎日バスと自動車が走っている風景が見られる。また親孝行の代表作である「沈清伝」の舞台になった印塘水と年俸岩が見えるところに「沈清閣」がある。沈清の父への親孝行を称して建てられたもので、訪問する人たちに孝行の意味を改めて想起させる展示室もある。 その他にも天然記念物392号に指定されている、2キロにわたって丸い小石で覆われた豆石海岸、西海の金剛と呼ばれるほど壮麗な、奇岩怪石が広がっている名勝8号の頭武津観光など、多くの名所がある。 私は特に、サゴッビーチで幼い頃、泳いだりして楽しく過ごした思い出や、砂辺を走る自動車を見て、どうしてタイヤが埋まることなく走れるのか不思議でたまらなかった思い出がある。軍事国境地帯という地域的特性はあるが、自然環境に恵まれた美しい島であることは間違いないようだ。 私の家族は3代とも故郷が違う。白 島の祖父は、北韓黄海道が故郷、祖母は仁川が故郷、母は韓国の白 島が故郷、父は日本の山口が故郷。つまり私は、韓日多文化家庭として日本で生まれた。 私には3カ国いずれも故郷であることになる。特に、母の故郷の白 島は私に赤ちゃんのときから韓国の情緒を教えてくれた心の故郷なのだ。 白 島の祖父は懐かしい故郷、黄海道長淵、北方の地を見ながら生前、一度だけでも故郷に行って祖先たちと曽祖父、曽祖母の墓にお墓参りし、お酒を一杯差し上げる親孝行を死ぬ前に必ずしたいと口癖のようによく話をしていたという。また、祖父は6・25戦争時、白虎部隊の出身で、勇敢に戦線を守ったことを大変な誇りに思っていて、様々な経験談を家族たちに聞かせたそうだ。 戦争が終わり、当時の仲間たちから仁川やソウルへ一緒にいって生活の基盤を作ろうと誘われたけど、祖父はすぐに故郷に帰るんだと言い、故郷に近い白 島に残った。 しかし、こんなに長い歳月を、北韓に残された家族と会えず、長男として親孝行もできずに過ごすとはその時は思わなかったと、喉を詰まらせながら何度も話したそうだ。 今は亡くなった韓国の白 島の祖父。そうだ!なぜ父と母が、墓参りそのものが大事な親孝行だと、そしてこうやって行けることが我々にとって幸せだと毎回言ったのか、その時ようやく理解できた。 祖父は、自分の故郷を目の前にしながらも行けない南北の現況を嘆き、白髪老人になった年でも親孝行をしたいと切実に願っていた。 それを両親は直接見て感じてきたのであり、今一緒にいる時に親孝行をすることがどれほど貴重なことか、そしてお墓参りできる国があるということが、いかに幸せなのかを体験させてくれたし、それは結局、祖父が私たち家族みんなに教えてくれたことなのだ。 高校生になった今では、白 島の祖父の墓参りに行ける旅道が懐かしい孝行の墓参りの道となっている。 | |