掲載日 : [2005-04-13] 照会数 : 9942
感情に走らず落着の道開こう 独島問題(05.4.13)
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朴熙澤・島根県本部顧問の訴え
独島問題で連日休まる暇のない民団島根県本部の朴熙澤常任顧問に、現在の心境を聞いた。
■「政治」脱し知恵を…交流中断いかにも愚策
漁業水域での島根側の不満
--「友情年」の年にふさわしくない大騒動となった。
03年に独島問題で県民大会が開かれた。青木幹雄議員や細田博之議員など地元出身の自民党国会議員が多数出席したが、その大会が大きな契機となって今日の問題が引き起こされた。
当時、慶尚北道が反発し、島根県に派遣していた公務員が事情聴取のために呼び戻された。澄田信義県知事から団長(当時)の私に「どうすればいいのか」と電話があった。関係修復のために私が慶北の知事、道議会議長に会いに行った。結局、1年かかって交流を復活させたが、あれ以来、首長同士の相互訪問はできずにいる。そういう経緯から条例を制定した場合には、慶北側の反発は目に見えていた。分かっていながら、県は制定を強行した。外交権のない県が制定をすることによって、引き起こした混乱の責任は大きい。
--地元の反応は。
日本で一番海岸線が長いのが島根県だ。漁業に依存している率も日本で一番高い。浜田は日帝時代から、底引き漁が大変盛んな漁業基地だったが、今は荒廃している。
独島は好漁場だ。韓日が漁業交渉で暫定水域を設け線引きをしている。ところが、韓国に利しているという不満が島根の漁民にはある。議員は漁民の代表でもあるので、条例を制定せざるをえないという立場だ。一般県民はどうか。日本の知人から電話がばんばんかかってくるが、「日韓友好を損なう制定強行はよくない」というのがほとんどだ。議員出身で現在は学者になっている人からも「文献を調べてみても竹島が日本の領土だという記述はない」という声が寄せられた。
--韓国の領土と主張する日本人学者もいる。
韓国、日本、北韓の学者らが、北東アジアにおける文化や人の交流など、古代史の掘り起こしを昨年まで20年間続けてきた。その中心的役割を果たしたのが、島根大学の内藤正中名誉教授だ。
内藤教授は2月25日の私の叙勲パーティーの時に、「独島は韓国の領土だ」と発言して一躍時の人となった。
主な論拠は、1895(元禄8)年12月に江戸幕府が鳥取藩に「竹島は因幡泊耆(いなばほうき)に付属する島かどうか」「竹島のほかに付属する島があるか」と聞き、鳥取藩が竹島、松島は鳥取藩のものではないと回答した点だ。この答えを踏まえて幕府は翌1896年1月、竹島渡海禁止を決定した。つまり竹島、松島の領有権を放棄したとみることができるのだ。これまであまり指摘されていない事実だが、1900年、韓国は大韓帝国勅令で鬱陵島を領土と宣言し、石島(独島)を管轄した。
進む右傾化と歴史認識絡む
--問題の本質はどこにあると考えるか。
歴史認識の問題が前面に出ている。「歴史教科書」歪曲と日本の右傾化の恰好の材料になっている。政治問題にされてしまったというのが実感だ。また、憲法改正のための伏線という政治的野望もある。日本に望むことは、国連の常任理事国になりたければ、まず国として尊敬されなければならないということだ。中国も韓国も賛成して理事国入りするのが理想なのに、そういう方向へは向かっていない。カネ頼りの政治手法は、韓国から見れば隣国との問題を誠意で解決しようとしない態度に映る。
--交流行事が中断に追い込まれている。
韓国と日本は唇と歯のように、どちらがなくなっても困る運命共同体だ。東北アジアにおける政治、安保、経済など、独島問題よりもずっと大事な問題で協力しあわなければならない。あまりにもエキサイトして、交流関係を簡単に壊してしまう。交流自体に罪悪感をもち、交流を中断することが偉いかのような空気ができる。韓日の対立を待っている政治勢力を利することになるのではないか。民団、日韓親善協会で数十年間にわたり培ってきたものを、独島の問題で壊してしまっていいのか、声を大にして言いたい。
互いに培った 親善見つめて
--「少年の翼」への影響は。
今年8月15日の開催で18回目を迎える。小学5、6年生と中学生の合わせて120人、それに医師、看護婦、校長先生ら引率者20人が、5日間韓国を訪れることになっている。今年の行事が終わればすぐに来年の準備に取り掛かるなど、年間を通した大事な交流事業だ。
これまで2回会議を開いたが、受け入れ先の慶州の学校の校長先生に直接電話を入れても即答を避けている状態だ。
また、韓国の大田市と島根の大田市が同名の市という希少価値に着眼し、私が姉妹結縁の段取りを進めてきたが、韓国側は一言のあいさつもなくファクス1枚で断交を伝えてきた。こんな失礼な話があるか。あってはならないことだ。
--韓国にはなんと。
強い意思をもって日本に向かうのだという態度を見せないと、反日が進む韓国で親日派にされてしまう恐れがあるから、首長をはじめ関係者がエキサイトしている。「つくる会」の教科書に絞って冷静に事を進めればいいのに、独島問題を表に出しすぎるから、教科書問題が逆にかすんでしまう。独島問題は冷静に外交的に解決すべきだ。
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領有権めぐる経緯と韓日主張
独島(竹島)の領有権問題の韓日双方の主張を客観的に整理する。
日本の島根県議会が2月22日を「竹島の日」とする条例案を可決して以来、韓国では政府、マスコミ、市民団体などが激しく反発した。韓国政府サイドでは当初、独島を実効支配している立場から、冷静に対応しようとする見解もあった。だが、世論はそれを許さなかった。日本人が佐渡島や伊豆大島が当たり前の日本領であると思っているように、この島は歴史的にも当たり前の韓国領だという思いが国民レベルで定着している。
さらに、島根県が独島(竹島)を隠岐島に付属する島嶼と告示した1905年は、日本が韓国の外交権を奪い保護国化した乙巳条約(第2次韓日修好条規)締結の年であるうえに、2月22日は日露戦争終結直前で、領有権の主張は戦争のどさくさに紛れた行為であり、その後の韓半島全面支配への一里塚そのものであるという認識も韓国では一般的だ。島根県議会の本音がどうあれ、また、多くの日本人が過去の植民地支配を肯定するものではないとしても、独島領有権主張の決議は、かつての日帝植民地支配をそのまま肯定するに等しいと韓国人は判断する。
渦中の独島は総面積が日比谷公園ほどしかない狭隘な岩礁群で、1978年に韓国政府が武装警官を常駐させるまで、有史以来人が住んだ形跡はない。島の周辺は優良な漁場としても船を着ける場所すらなかった。まさに独島は、韓国と日本のほぼ中間、東海(日本海)の真ん中にポツンと突き出た絶海の岩礁である。
はや17世紀に 領有権の争い
韓国の中学歴史教科書では、独島が古くからの韓国領であることを証明する事例として、以下の記述がある。
「朝鮮朝の粛宗のとき(17世紀中頃、江戸時代初期)、釜山・東莱に住む漁民・安龍福がここに往来する日本人を追い払い、日本に渡って独島が我が国の領土であることを確認させたこともあった」
■急がれる精緻な共同研究…島々の名称変転での混乱をふまえ
この安龍福こそ、独島領有権を韓日が相互に主張するきっかけをつくった人物である。韓国では、鬱陵島に彼の勇気を称える記念碑が建っているほどの英雄である。ここで注目すべきは、この時点で、今日まで引きずっている韓日の見解の食い違いがすでに始まっていたことだ。安龍福という人物は日本ではあまり知られていないが、独島問題を歴史的に把握するためのキーマンである。
彼について書かれた古文書は韓日ともに多数あって、その解釈は両国史家でかなり異なる。評価の違いを見る前に、その頃のこの辺りの海の情勢を見ておこう。
朝鮮朝初期、朝鮮政府は鬱陵島の住民を本土に移住させる「空島政策」を施行していた。太宗17(1417)年、政府は100人近い鬱陵島住民を本土に送り、島への渡航も禁じた。世宗7(1425)年には、島の住民が忠清道の深遠な地に送られたとの記録がある。「空島政策」の背景には、北方の女真族の襲来を避けたという説や、鬱陵島住民や流民が倭寇と結託し、「仮倭」となって本土を襲っていたからとの見方もある。
倭寇の活動がおさまってからも「空島政策」は続き、鬱陵島は無人島となっていた。ところが16世紀末頃から、日本の漁民が無人の鬱陵島まで出掛けて漁をするようになった。周囲はアワビやワカメが豊富で、油脂を取るためのアシカもいた。その後しばらく、鬱陵島と日本の航路上にある独島周辺は、日本漁民の漁場になっていた。
江戸時代になると、幕府は鬱陵島を「竹島」、独島を「松島」と呼んだ、独島を竹島と呼ぶようになるのは明治以後である。呼称の逆転も、見解の食い違いの遠因となっている。
1617年、鳥取藩米子の大谷家と村川家が藩主に鬱陵島への渡航と漁の独占を願い出て、その後両家は年毎に交代して鬱陵島(当時の日本では竹島)とその途中の独島(同・松島)周辺で漁をしていた。ところが1692(元禄5)年、村川家漁民と韓国漁民とが鬱陵島で鉢合わせし、一触即発の事態になり、その韓国漁民の中に安龍福がいた。日本の史料によれば、このとき初めて鬱陵島で韓国漁民と出会ったとされ、安龍福は片言の日本語を話したという。日本側は、日本語が分かる安龍福を通じて韓国漁民に撤去を申し出て帰国した。翌年春、大谷家の漁民が鬱陵島を訪れると、再び韓国漁民と遭遇した。このときもその中に安龍福がいた。この年、大谷家は安龍福ともう一人の漁民を日本に連れ帰った。
このあたりから、韓日で史実の解釈に食い違いが生じてくる。韓国側の史料では、2人は倭人に銃刀で脅されて拉致されたとあり、日本側史料では「不法操業」の韓国漁民を鳥取藩にひとまず連れ帰り、幕府の裁定を待って処分を決めるつもりだったとしている。いずれにせよ、問題の人・安龍福らは鳥取藩に連行された。このとき安龍福は鳥取へ向かう途中で独島(当時は別名)を見かけたと証言している。
朝鮮政府から幕府への書簡
その後安龍福らは、鳥取藩から奉行所のある長崎に送られ、幕府の取り調べを受けたあと当時の「外務省」でもあった対馬藩に送られ、来日から6カ月後に釜山浦の倭館を通じて東莱府に還された。朝鮮政府は最初、彼を「国禁」を犯した犯罪者扱いしていたが、明らかな韓国領である鬱陵島で日本の漁民が操業しているのは問題との声が政府内部に起こり、彼の「罪」は不問に付された。ともかくも、彼の行為が朝鮮政府に鬱陵島の領有権を強く自覚させるきっかけになった。その後、朝鮮政府は対馬藩に対して鬱陵島の領有権を主張するようになる。
その根拠になっているのが『東国輿地勝覧』(1481年成立)という古文書である。この書には鬱陵島の他に于山島(ウサンド)という記述があり、この島の存在が独島領有権「争点」の極となる。朝鮮政府は対馬藩に対して、鬱陵島は竹が自生しているので竹島ともいうが、明らかに朝鮮領で日本の領土とするのは遺憾だ。日本漁民が往来しないように江戸幕府に転報してほしいという趣旨の書簡を送っている。
このとき、韓日間で「領土をめぐる係争」が初めて勃発した。ただし当初は鬱陵島(当時の日本名・竹島)を巡ってのことだった。結局、江戸幕府は「竹島(鬱陵島)」が朝鮮領土だと認め、鳥取藩を通じて前述の両家に「竹島渡航禁止」を通告する。さらに対馬藩を通じて、その決定を朝鮮政府にも報告した。
ところが、対馬藩からの報告が朝鮮政府に届く直前、安龍福とその一行(11人)が鳥取藩の赤碕灘に突如現れた。1695(元禄8)年、5月20日のことである。彼が鳥取藩に連行されてほぼ3年後だ。このとき安龍福は『鬱陵于山両島監税』という官職を名乗っていた。この官職は実在しないが、彼は明らかに『鬱陵島と于山島』の領有権を日本側に主張するため、わざわざ国禁を犯してやって来たのである。ここでの于山島は独島を指していることは間違いなく、彼は鬱陵島ばかりでなく独島領有権までも主張している。まさしく英雄的行動である。
ここで歴史上最大の「争点」が浮かび上がる。「于山島」とは果たして独島(竹島)のことなのかという問題である。
「于山」の名が最初に登場するのは、1145年に著された韓国最古の史書『三国史記』である。そこには、新羅・智証王13年に于山国が新羅に帰服したとあり、その国は溟州沖の東海にあって、鬱陵島とも言うと書かれている。人が住んでいるのだから現在の鬱陵島に間違いないだろう。ただしこの時点では、于山国の中に現在の独島が含まれているのかどうかは断定できない。
「于山島」でも認識に相違点
時代が下って朝鮮朝時代の文献では、「于山」は国名ではなく鬱陵島に付属する島名として登場する。前出の『太宗実録』、『東国輿地勝覧』の他に『世宗実録地理誌』(1454年)でも、鬱陵島と于山島は近接する別の島とある。そしてこの于山島こそ独島であると、韓国は見ている。
その根拠となっているのが、18世紀後半に書かれた『東国文献備考』中の「輿地考・分註」にある記述だ。そこには、《輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり》とある。松島は現在の独島にほかならない。韓国政府も、この記述が独島領有を最終的に証明するものとしている。
この中の『輿地志』とは1656年に成立した地誌で、この記述の信頼性こそ独島の帰属が最終的に決定される《分水嶺》と言っても過言ではない。なぜなら、日本政府が「竹島は日本領」の論拠としている文献『隠州視聴合戦』(1667年序)より、『輿地志』の方が先に刊行されているからだ。
ところが日本のある研究者などは、『太宗実録』や『東国輿地勝覧』『世宗実録地理誌』で書かれている于山島とは独島(竹島)のことではなく、鬱陵島のすぐ東にある小さな島、竹嶼(竹島ともいう)のことであり、『東国文献備考』「輿地考・分註」の記述は信頼性に乏しいと主張する。
根拠は、『太宗実録』の中に「于山島から男女、86人を連れ出した」との記載があり、人が住んでいたのだから独島ではあり得ないというものだ。また、韓国人は独島が鬱陵島に近接していると考えていて、鬱陵島近くの于山島という表現からすぐに独島をイメージしがちだが、実際には90㌔以上も離れていて属島とは言えない。新羅時代の于山国の領域には独島は含まれていないはずだという。さらに、1656年に成立したとされる『輿地志』は現存せず、引用された個所を現在は確認できないことなどを挙げている。
このあたりの見解の相違について、韓日共同の精緻な研究が必要なのではないか。
見解の相違という面では、1945年の日本敗戦直後の米国占領軍(GHQ)の政策をめぐる解釈も根本的に食い違う。
GHQ指定と李承晩ライン
1946年、GHQは日本近海上にいわゆるマッカーサー・ラインを設定した。日本漁船が操業できる限界海域を指定したものである。事実上、当時の日本の領海だ。独島は日本から見ればそのラインの外側に位置していた。日本政府の立場では、マッカーサー・ラインは敗戦後の暫定的国境で、実際の国境ではないという。その根拠は、日本が領有権を主張している北方4島もラインの外側にあり、日本領に復帰した小笠原諸島、奄美諸島、尖閣列島を含む沖縄諸島も当初そのラインの外側にあったとする。
韓国はマッカーサー・ラインをGHQが認めた正式の韓日国境線と判断した。もちろん、独島領有には前述の歴史的根拠もある。ところが、1952年発効のサンフランシスコ条約では、独立後の日本が放棄した領土(主に旧植民地)の中に独島は含まれていなかった。当時の李承晩大統領は米国に対して、マッカーサー・ラインの韓日国境部分を残すように条約の変更を要求したが拒否された。日本政府が「韓国による竹島不法占拠」とする根拠はサンフランシスコ条約にある。李承晩大統領は条約発効直前(52年1月)、マッカーサー・ライン上に「平和線」(李ライン)を設定し、独島を実効支配し今日に至っている。
領土問題はどの国でも熱くなる。植民地支配・被支配の歴史的経緯が絡まればなおさらだ。まず冷静に相手の立場をおもんぱかる余裕がほしい。漁民の生活という極めて現実的な要求も、韓日双方の背景にある。原則論は譲れないにしても、現実を柔軟に料理する技や、長期的な論争はそれとして、短いスタンスの「落としどころ」も模索し合う必要がある。
(2005.04.13 民団新聞)