掲載日 : [2005-04-27] 照会数 : 6860
<2500号の足跡>2.民族と階級(05.04.27)
[ 解放1周年を祝う大会に集まった神奈川県下の同胞たち(1946年8月15日) ]
民族と階級「日本革命」に走る朝連 建国優先の民団圧迫…2500号の足跡から見えるもの
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48年に韓国の公認状受ける
韓国政府樹立から間がない48年10月、民団は政府から公認状を授与されたのを受け、「本団は何人の拘束も受けない民族の代表として外交し、在留六十万の生命と財産を保護し、居住と産業に対し民族の安寧を堅守」することを表明、「画期的な再出発」を宣言した。これは第2次宣言と呼ばれ、「在日朝鮮居留民団」から「在日本大韓民国居留民団」に名称を変更したことで知られる。
ここでは、同胞の渇望によって組織された指導団体として朝連と民団をあげ、「前者は計画的に思潮運動の地盤となってしまい、本団は前者の抑圧を受け、その発展は遅々とし、焦燥の感を禁じえなかった」と明らかにしている。解放後間もなく結成された朝連は、高揚した雰囲気のなかで同胞の人的・物的資源を大規模に糾合した。その1年後に結成された民団の基礎的な条件は、絶対的な劣勢を余儀なくされていた。加えて、思想信条、主義主張を超えて大同団結する民団は、それゆえの寄り合い所帯の側面も色濃く、強力な指導部を構成しにくかったことも無視できない。
はるかに強力だった朝連は、民団に対して一貫して攻撃的であり、民団打倒を公言していた。そうした実態に照らせば、この宣言の朝連に対する態度はいかにも微温的である。結成宣言では朝連の名称すら出ていない。「在留同胞は、政治や思想運動に走って主義主張のみを叫ぶときでもなくまた場所でもない」と間接的に言及しただけである。
民団と朝連の政治に対する態度は180度異なる。それでも民団は朝連系同胞をあくまで、共同体の一角を構成する存在とみなし、いつでも受け入れる対象としてきたのである。
民団新聞第2号は「居留民団結成に際し/朝鮮人連盟を去りつつ」と題した論説で、こう指摘した。「解放直後雨後竹筍の如く発生したる各団体を網羅して合流結成されたのが、朝鮮人連盟であったのである。随って朝連は一定の政治理念たる主義思想主張に固定する事なく在日同胞の全部を包容する代表機関」であったにもかかわらず、「使命を忘却して、何の為に大同団結を唱えたかすら忘れて独善主義に走り、反動と民族反逆者を乱造し、(中略)居留民団撲滅という結論を生み出した」。
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朝連の式典も温かく報道
この論説は、結論の部分で、民団は朝連全体を非難するものではないこと、ただ大同団結と正しい建国理念に忠実でありたいこと、「生活人の正しき信念」に基づいて生きようとすること、この3点を強調している。
第28回3・1節記念式典の模様を報じた第3号(3月20日付)も、なかなか興味深い。民団の式典は日比谷公会堂で、朝連の式典は隣接する日比谷野外音楽堂で、それぞれ同じ時間帯に開催されている。
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朝連との対話…常に呼びかけ
民団新聞は朝連の式典も報道し、「開会時には緊張していた会場も折悪しく降り出した雨のため屋外会場の悪条件に災いされて、会途中に大分散じ去ったのは残念であった」とコメントしていた。
また、朝連はこの式典で「在留朝鮮人が正当にその生活権を主張し又はその利益を擁護せんがための権利即ち選挙権並びに被選挙権を与えること」を決議した。民団はこれに対して「選挙権獲得の陰謀を粉砕せよ」とする声明を発表、「在留同胞の投票を集中して、同一イデオロギーの日本政党にサービスせんとする謀略」と批判した。しかし、ここでも朝連に対し、「いつでも熱き握手の用意があること」を付言している。
ここで、朝連の政治的な実態について概観しておこう。解放以前の在日社会にあって、支配国・日本に対する闘いを通じてもっとも組織的に訓練された同胞集団は左翼勢力だった。戦時下や敗戦直後の日本における共産主義運動、労働運動の担い手はむしろ同胞たちであり、朝連結成を主導したのも彼らである。その流れで、朝連を牛耳ったのは日本共産党朝鮮人部(金天海部長)であった。
朝鮮人部の副部長・金斗容は日本共産党の機関誌「前衛」で、朝鮮人は天皇制廃止と日本反動政府打倒の人民解放闘争に従属しなければならないとする論文を立て続けに発表、47年5月号の「朝鮮人運動の正しい発展のために」では、民族問題は階級闘争に従属しなければならず、両者が矛盾するときは階級的利益のために民族的利益を捨てなければならない、とまで主張していた。
民団新聞は「創刊の辞」でやはり名指しを避けながら、「あらゆる能力と時間を政治的に動員され、他国の内閣打倒を叫んだ挙句、犯罪者として処断されるのはあまりに情けない」と嘆いている。実際、朝連路線は組織内外から手ひどいしっぺ返しを受けた。歴史に「もし」は禁句としても、生活者団体に徹しようとする民団の存在がないまま、同胞の多くが朝連路線で突っ走っていたら、在日社会は破滅の淵に追いやられていたであろう。
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「南日声明」で路線を転換へ
芥川賞作家・李恢成氏の作品に「われら青春の途上にて」(講談社=70年)がある。主人公ら同胞青年たちが韓国戦争当時を振り返る会話のなかに、朝連(49年9月に解散命令)を母胎に在日朝鮮統一民主主義戦線(民戦=50年8月結成)、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連=55年5月結成)と続く路線問題についてのやり取りがある。手ひどいしっぺ返しの一端がうかがえるだろう。
「おれ達は信じていたんだ、あの方針を‐。日本革命の成就なしに朝鮮革命の遂行なし。よく言ったもんだよ。(以下略)」
「しかし、一夜明けてみりゃ、極左冒険主義者さ。日共じゃ、同志は朝鮮人としての正しい運動に戻るべきだと説くし、総連ではこれまでの過ちを自己批判すべきだと言うし……。(以下略)」
「間違っていたかどうか知らんが遣り切れぬのよ。畜生、おれは命をかけてやったんだ。その揚句が、極左冒険主義者の烙印を押されてこの始末だ。自分を顧みず、すべてを投げうってやったこの俺が‐」
北韓の南日外相は54年8月、平壌放送を通して「在日朝鮮人は共和国公民」だとする声明を発表した。これは、朝連系統の運動路線を転換させるシグナルとなった。旧朝連勢力が結集していた民戦は、従来の日本共産党に従属するグループといわゆる民族派との内部抗争が激しくなり、急速に瓦解していく。
朝連に対しては寛容な側面をもっていた民団も、北韓人民軍の南侵によって韓国戦争が勃発、凄惨な同族相残を経験してからは、民戦には厳しい態度を見せるようになっていた。
(2005.04.27 民団新聞)