掲載日 : [2005-04-27] 照会数 : 6663
<2500号の足跡>3.「55年体制」(05.04.27)
[ 朴正熙大統領(右)とともに祖国の植樹祭に参加した在日同胞青年たち(1973年) ]
「55年体制」2大組織が正面激突…総連の撹乱工作を一掃
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南北対立激化…在日にも波及
朝連・民戦の基盤を継承した朝鮮総連は、路線については大きく舵を切った。在日朝鮮人が日本共産党の方針に沿って運動してきたことは誤りだったと全面的に否定し、在日朝鮮人は「共和国公民」であり、「共和国の周囲に結集して共和国を守り、共和国のために運動」し、日本の内政問題には干渉しない方針を打ち出した。
民団は当初、朝鮮総連への衣替えを主導した勢力には好意的だった。本紙も「民族主義的良心分子」と呼んで、動向を注目していた。しかし、路線転換は彼らの政治活動を抑制するものではなかった。従属先が日本共産党から朝鮮労働党に移っただけのことだ。日本で55年体制といえば、保守系が自由民主党に、革新系が日本社会党にそれぞれ糾合され、93年まで続いた2大政党体制を指す。55年に総連が誕生したことで、この年はじめて韓国‐民団、北韓‐総連という構図が成立した。いわば、在日同胞版55年体制である。
これは在日社会の様相を一変させた。民団と朝連・民戦との角逐は、同胞共同体の本然的欲求に根ざす運動に徹するのか、それとも共同体を犠牲にして同胞を日本革命に動員するのか、言い換えれば日本に対する姿勢と同胞をいかに導くのかをめぐるトライアングル状のものだった。在日版55年体制は、「日本革命」に向かっていた朝連・民戦のエネルギーを韓国と民団に集中させ、南北対立に在日同胞社会を本格的に巻き込むことを意味していた。
金日成政権は50年代後半から60年代初頭にかけて、延安派・ソ連派、反党宗派分子を粛清し、唯一指導体制を固めていく。一方、韓国では60年の4月学生義挙で李承晩政権が倒れ、翌61年には5・16軍事政変があり、また6・3闘争(64年)に象徴される激烈な韓日会談反対運動が展開された。激動のなかで朴正煕政権がやはり長期執権の基盤を整えていく過程にあった。62年のキューバ危機、その後本格化するベトナム戦争など、強まる東西冷戦構造とも連動して、南北は対決姿勢を強めていた。
総力をあげた南侵武力統一に失敗した北韓は、対韓破壊工作、つまり韓国内に北韓「支持勢力」を植えつけて「革命」もしくは「革命状態」をつくり出す間接武力統一路線を固めていた。64年3月、実態は労働党の韓国内地下組織である統一革命党がソウルで結成されたと発表、67年12月に最高人民会議で「10大政綱」を提示し、翌68年1月には「南朝鮮人民」の蜂起を装った武装ゲリラをソウルに、11月には蔚珍・三陟に侵入させた。70年11月の労働党第5回党大会では、駐韓米軍を撤収させた後、北韓の武力を背景に人民民主主義革命によって韓国政府を倒し、統一を達成するとの迂回戦略‐「南朝鮮人民民主主義革命論」を打ち出した。
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対韓破壊狙い民団内を撹乱
総連はこの路線と軌を一にして、民団を対韓破壊工作の基地にすべく注力することになる。その戦術の一つが民団系青年学生を包摂し、「工作員」として韓国に浸透させることだ。いま一つがフラクション(本来は破片の意。一般的には、政党が労働組合や大衆団体などの組織内部に設ける党員組織のこと)を民団内部に植えつけ、その周辺にシンパを固めることだった。
この勢力は60年代末から70年代初にかけて、中央指導部の乗っ取りをはかり、いくつかの大手本部を暴力的に占拠するなど、民団を根こそぎ我が物にしようとする画策を公然化させた。中央3機関長の監禁・暴行を含む「民団内不純分子乱動事態」と呼ばれる一連の策動は、民団を創団以来の危機に立たせた。結局、「不純分子」の一掃に成功したものの余震が続いた。
画期的な7・4南北共同声明が発表された72年、韓国は「維新憲法」(10月)、北韓は「社会主義憲法」(11月)の草案を相次いで発表し、いっそうの体制引き締めを図った。一方は朴正煕大統領の終身化を可能にし、一方は主体思想を唯一絶対とする金日成主席個人の国に変えるものだった。
この時期の民団には、フラクションの跳梁(ちょうりょう)を許したのはあまりに激しい中央3機関長選挙が深刻な内部対立を生み出すからだとの認識が広がっていた。民団の伝統に背くものとする反発があったにもかかわらず、投票選挙を抑制することを軸に、組織整備・強化策が推進されたのである。「維新体制」に呼応したもので、当時の本紙にも「維新民団」・「総和民団」という見出しが大書されていた。
55年体制以降、特に60年代中盤からフラクション勢力を一掃するまでの間、民団は試練の連続だった。民団は総連に対してなお劣勢にあり、経済成長を遂げた韓国も軍事力では北韓を十分抑止できる水準にはなかった。先手で攻勢を仕掛けてくる総連から、民団を守ることは韓国を守ることにつながった。生活者団体であっても、闘うべきときに闘わなければ存立自体も、存立意義も危うくなる。こうした現実的な要請が、たとえば「総和民団」体制のように硬直化すれば、創団精神との間に葛藤が生まれる。しかし、民団は総連にはないしなやかなバネが働く。「総和民団」体制は形式上は2期6年、実質上は1期3年で終わった。
4・19学生義挙を受けた第3次宣言(60年5月)では、「建国途上にあった祖国に対する無限の愛国心と、その発展を念願する余り、国政に対する正否の批判を怠ってきた」ことを率直に反省、在日同胞政策については是々非々を堅持し、国内政策においても国憲に背馳する施策には可否の態度をいっそう明確にすることを表明した。
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運命共同体を認識し和合へ
また、この第3次宣言では初めて、「朝鮮人連盟との反共闘争に全力を傾注してきた」と明記した。以後、第4次宣言(66年6月)、第5次宣言(76年3月)と続いて、「反共理念のもとに全僑胞を包摂する」との文言が入った。しかしこれも、96年3月に採択された現行の第6次宣言では削除され、「在日同胞社会が不幸な歴史の共有者であり運命共同体であることを認識し、国籍と所属を超えた幅広い交流・和合により同質性を回復::」に置き換わった。
創団精神は、「全員帰国するまで」(第1次宣言)とされた草創期の暫定的な組織から、韓日会談による法的地位協定の締結を受けて「日本に永住するに至った」(第4次宣言=66年6月)ことを認め、永続的な組織となって以降も変わっていない。
(2005.04.27 民団新聞)