掲載日 : [2005-06-08] 照会数 : 7075
<寄稿>林宏(民団栃木県本部団長)(05.06.08)
[ 元の看板(上)と由来も入った新しい看板(下)
]![](../old/upload/42a6a4fd998c3.jpg)
朝鮮通信使の立ち寄り先だったことを示す栃木県今市市内の看板「『唐人小屋』跡地」が、このほど「朝鮮通信使の今市客館跡」に改められた。民団栃木県本部の林宏団長が「善隣友好の精神にそぐわない」と斎藤文夫市長に善処を申し入れていた。市では「字名として言い伝えられてきた」ものと話している。林団長に改訂に至った経緯について寄稿してもらった。
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朝鮮通信使の立ち寄り先…民団が異議
朝鮮通信使と今市
朝鮮王朝は江戸時代、徳川新将軍の就任を祝って計12回、朝鮮通信使を派遣した。このうち1636年(第4回)、1643年(第5回)、11655年(第6回)の3回は正使・副使・従事官の三使ら約200人が今市で宿泊。翌日、徳川家康の霊廟がある日光東照宮に参拝した。
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「唐人小屋」跡地
「今市客館跡」に改訂…市が対応
02年「韓日市民交流年」の最大イベントとして韓日両国による朝鮮通信使行列が再現されて以来、朝鮮通信使についての関心が高まり、その歴史的役割や史跡を研究する同胞が増えてきた。
また、宇都宮大学国際学部主催の「朝鮮通信使と日光」公開講座が、03年12月から05年1月にわたり4回、日光市で開催された。その際、遺物や遺跡のスタディツアーも実施された。これがきっかけとなって、それまでは何の変哲もなく、人目も引くことのなかった古びた看板がにわかに問題になった。
その看板は今市市杉並木公園にひっそり立っていた。表記を見ると「唐人小屋」跡地となっていた。この看板が急に歴史の表舞台に登場することになったのだ。
この公開講座席上、徐洪錫さん(元民団西東京本部議長)から「『唐人小屋』とは何だ。差別用語ではないか」と抗議に近い発言があった。その後、同じく講座に参加していた川口市内の文化センター・アリランの理事長、朴載日さんからも民団栃木県本部に対して看板の立て替えを求める相談があった。
江戸時代の「唐人」は当時、外国人一般を指し示す言葉だった。中国人ばかりか、朝鮮人もオランダ人も等しく「唐人」だった。「小屋」という表記についても、江戸から材木を運び、1万両余りという莫大な費用をかけながら宿泊後はすぐに取り壊したことからそう呼ばれたのだろう。
しかし、一国の外交使節をもてなした宿泊先を「小屋」と呼ぶのは違和感があった。一般の観光客は韓国を見下した表記と勘違いしそうだ。「韓日友情年」の年にこれは困る。韓国からの訪日客にも決していい印象を与えまい。
民団栃木県本部ではすぐさま日光朝鮮通信使研究会の柳原一興さんを通して斎藤文夫今市市長に看板表記の改訂についてお願いし、あらためて4月15日に市長を表敬訪問した。
私自身は、改訂が実現したとしても、半年や1年はかかると思っていた。しかし、あたらしい看板は5月中旬にはできあがっていた。ステンレス製のぴかぴかの看板は「朝鮮通信使の今市客館跡」となっており、従前の看板では抜け落ちていた由来もしっかり記されていた。
形こそやや小さくなったものの、誇らしげに立っていたのが私にはなによりうれしかった。
(2005.06.08 民団新聞)