掲載日 : [2005-06-08] 照会数 : 5950
韓日「覚書」きっかけに…90年代から増加(05.06.08)
民族学級の歴史は解放直後までさかのぼる。阪神教育闘争に基づくいわゆる覚書後の民族学級は50年代後半以降、急激に衰退し、一時は10校にまで減った。
70年代にはいると大阪の同和教育推進校で自主民族学級が始まる。その先陣を切ったのが、同胞の子どもたちが児童会選挙で「ウリマルを返せ」と掲げた大阪市立長橋小学校だった。自主民族学級は大阪市と東大阪市の同和教育推進校と同胞多数在籍校に広がる。
その後、91年の韓日外相覚書で民族学級が追認されたことを受けて、民団大阪本部をはじめとする同胞側が大阪市教委に民族学級の制度保障を求めていく。これを受けて大阪市教委は92年、「民族クラブ技術指導者招聘事業」に着手。これが民族学級増設の起爆剤となり90年代、急激に民族学級が増えていった。
現在、「民族クラブ技術指導者招聘事業」に基づき民族講師17人が非常勤講師として勤務し、常勤民族講師が担当する14校を除く86校の指導にあたっている。
(2005.06.08 民団新聞)