掲載日 : [2005-06-08] 照会数 : 10536
南北頂上会談5周年こう見る…民論団論
[ 共同宣言に署名後、杯を交わす南北首脳ら=2000年6月15日、平壌 ]
5年前の6月15日、金大中大統領と金正日国防委員長は、双方の統一法案に認められる共通性に沿って統一を志向し、経済交流を通じた民族経済の均衡的発展および各分野の協力活性化による信頼確認を目指すなどとした5項目の合意事項と、金国防委員長が「適切な時期にソウルを訪問する」ことを明記した「共同宣言」に署名し発表した。この間、南北の道路が連結され、金剛山観光が定着し、開城工業団地に韓国企業が進出した。韓国は大統領選挙と総選挙によって、政治地図が塗り替わり、北韓は日本人拉致事件や核開発問題によって孤立を深めた。南北政府間交渉は一進一退で停滞している。南北頂上会談5周年を読者はどう見ているのか。忌憚のない意見を寄せてもらった。
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統一国家理念を示せ…普遍的な価値観ふまえ
朴景久(千葉県・ジャーナリスト)
南北次官級会談の合意から2日をおかない異例の早さで、韓国は肥料20万トンの対北輸送を開始した。北はこの事実を隠し、「人道主義と同胞愛的立場から協力事業を積極的に推進することにした」(朝鮮中央通信)と嘯(うそぶ)いたばかりか、共同報道文に、「我が民族同士の理念に従って」との文言を勝手に加えていた。北の対南路線からして、「民族同士の理念」なる言葉の持つ意味は重要であるにもかかわらず、韓国政府はこの改ざんを問題にしていない。そこに、現在の韓国の病巣が見える。
民族主義叫ぶ危険
結論からいってその言葉には、韓国を包括的に取り込んでいこうとするコンセプトが示されている。まずは、肥料をはじめ資本や技術など南から取れるものは搾り取ろうとする狙いがある。これはあえて、北の民生安定につながる(はずの)ものとして甘受しよう。だが、韓国内に親北勢力を増殖させようとするより大きな企図があることを軽視してはならない。
その北が民族主義を肯定し始めたのは、光州事態後の80年10月に開かれた第6次党大会からで、韓国に高まった民主化・反米の機運を活用するうえで得策だと判断したからだ。それまでの定義は、「民族主義は、階級的利益を全民族的利益という言葉でごまかし、民族的優越性を掲げて民族を蔑視あるいは憎悪し、民族間の不和と敵対をたくらむブルジョワ思想」(73年・社会科学出版社『政治事典』)であった。
民族主義は北の対南工作に大きな効果をもたらした。それは教育現場まで浸透している。韓国では昨年から、近現代史は高校2・3年生の選択科目となり、検定教科書を用いるようになった。そうした教科書の多くは、北は自主・自立の国、南は米日に隷属・依存する国という構図を描いている。韓国の政治史を「民主主義の試練と発展」としてとらえ、歴代政権を「独裁」と規定する半面で、北韓のそれには革命継続のための「権力集中・強化」と印象づけている。民族主義を前面に出しながら、北の精神的な優位を導き出そうとするニュアンスが色濃い。
東北アジアの中枢
理念・体制においていずれがまともかは論議の余地もない。統一を担保するのは韓国である。南北関係はあくまで、人類が獲得するに至った普遍的な価値観に基づいた、統一国家のあるべき理念をもって常に検証されるべきだ。強大国に囲まれた地政学的な位置をむしろ、東北アジアの中軸国家建設の足場にしなければならず、またそうしなければまともに生き残れない私たちにとって、絶対必要条件である。
近現代における私たちの国づくり理念は、抜き差しならない不幸を背負ってきたと思う。一つは朝鮮朝末期の改革運動である。日・清・露がせめぎあうなかで、近代化へのまともな改革要求が親日行為と渾然となり、結果的に一部は日本に利用され親日派に転落していった。もう一つは民主化運動である。激しい南北対立のもとで、それが北の対南工作の隠れ蓑になったことによって、当然の要求・行動までが弾圧の対象となり、親北勢力を増殖させる土壌をつくった。
第3の不幸許すな
いま私たちは、「民族同士の理念」の名によって、第三の不幸をつくりだしつつある。民族主義は理念を導きだす基礎ではあっても、理念そのものではない。統一においても民族主義は、その燃料にはなっても推進装置にはならない。必要なのは、連邦制だの国家連合だの方法論的な論議以前の、統一国家のビジョンである。これを示すことなく民族主義の名のもとに統一を叫び、北にすり寄る者たちは、第三の不幸を準備することにしかならない。
親北勢力は、自らが統一推進主体勢力だと自認している。しかし、およそ韓民族の一員でありながら、統一そのものに反対した者がいるだろうか。それぞれの政治的な理想や系譜によって、あるいは南北間の力関係によって、時に積極的であり得たし、また消極的であったに過ぎない。統一への貢献は、「統一」を叫んだ数によって計られるものではなかろう。
南北頂上会談5周年を記念して、平壌で統一大祝典が開かれるという。72年の7・4南北共同声明を受け、朝鮮総連が民団系団体を僭称する総連のダミー組織とともに、在日同胞共同祝賀行事を大々的に展開したことを思い出す。民団を取り込めなかったのと同じ手法で、韓国をまるごと取り込めるわけもない。
北中枢は、真に向き合うべきは親北勢力ではなく、人類普遍の価値観を尊重し、民族と統一国家に責任を担う立場から、自分たちに毅然とした態度をとる勢力であることをよく知っているはずだ。政略的な茶番劇を繰り返し、揺さぶりをかけ続けても、この勢力が膝を屈し、北にすり寄ることはあり得ない。
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民衆見すえて支援を…北の意識必ず変化する
李日海(東京都・自営業)
日本の右旋回状況
最近、盧武鉉大統領は東北アジアにおける「均衡者(バランサー)」としての役割を強調している。その主旨は地政学的、経済的立場から、我国が日本と中国という二国間において占める位置付けについて定義したものであろう。日本の復古調ナショナリズムの顕著な台頭と、中国の経済発展を背景にした新しい世代のナショナリズムの摩擦が露になっている今日において、我国のおかれた立場は微妙である。
中国だけではなく、我国にとっても日本の復古調ナショナリズムへの急激な傾斜は不愉快なものだ。ましてやその主導勢力は、我国の同族国家北朝鮮を仮想敵国ではなく主敵国として見なすことで、この間の種々の政策変更を正当化する根拠としてきた。それは自衛隊の海外派遣のなし崩しの合法化、有事法制ひいては憲法9条の改定であり、日の丸・君が代の強制、防諜法制定等々である。一部政治家やマスコミが「拉致」と「核」をのべつ幕なしに言い立てることにより、日本国民はいわゆる平和憲法や思想・言論の自由といった基本的人権の一部を手放すことにためらいを感じなくなっている。このように長年の政治的タブーを取り払うため北朝鮮の脅威を利用する日本と我国が対北朝鮮政策で、全く同一の歩調をとることは不可能である。それは6カ国協議の枠組みにおいてもだ。単に北朝鮮が同族国家であるからだけではない。我国は建国以来50年以上北朝鮮と軍事的に厳しく対立してきたのであり、その対立を経てようやく5年前の南北首脳会談以来の交流事業を進めているからである。これを後退させることはできない。それは軍事的対立への後退でしかないからだ。
不条理さへの抵抗
首脳会談当時、平壌空港での金大中前大統領と金正日の握手を目の当たりにして、違和感を覚えた国民は多いだろう。人権と民主主義を長年の看板にしてきた前大統領とそれと対極にある独裁者との握手である。しかしながら当時の北朝鮮の困難な状況下に、急激な変動を望まなかった我々に他の選択肢はあっただろうか。ましてや現在の日本のように、ことさらに北朝鮮の軍事的脅威ばかりを強調しても得るものはなかった。
我々は北朝鮮の段階的変化を積極的に促すしかない。それは主として経済的援助によってなされる。それを独裁政権への援助ではなく2千万国民への援助として捉え、その視点に沿った経済協力を行うべきだ。それにより北朝鮮の国民が飢えや医薬品の不足から解放されるなら、次には自らの置かれた不条理な状況についてより強い抵抗を感じ始めるだろう。毛沢東は大躍進運動と文革により数千万の国民を死に追いやった。それでも尚、中国の政策の転換は彼の死を待たねばならなかったし、天安門事件から愛国有理を掲げる新世代の登場は、その間の経済成長なくしては有り得なかった。経済成長による社会構造と意識の変化は、政治体制にも波及せざるを得ないであろう。
忍苦の先を信じて
我々にも今しばらくの忍苦が必要である。近い将来我々が、北の独裁者ではなく2千万同族と握手できる日が来ることを信じて。我々にとってはその日が来て初めて狭隘なナショナリズムを克服するスタートラインに立つことができる。平和裏にそこまで辿り着くことで東北アジアのバランサーとしての役割を果たす資格を得るのである。
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北は宣言履行せよ…民族の誇りかけた統一へ
孔錫享(岡山県・自営業)
日本というひとつの器の中で共に生活し、南北に肉親や親知をもつ在日同胞にとって頂上会談は何だったのだろうか。金正日委員長はソウルに来ず、ただ平壌で大統領と面談し、支援を要求しただけではなかったのか。72年の7・4共同声明の時と同じく、期待を込めた統一酒も日増しに醒め、日本赤十字と総連によって帰還した同胞を思うと、北の自然崩壊または吸収統一を望みたくもなる。
6・15後、いくつかの地方で民団と総連の交流が行われているが、在日の和解は組織の足カセを外し、人を大切にすることで可能である。すでに和解を体現する「在日の家族」も多い。とりわけ、北に家族がいる同胞はうまく組織を活用しているのが現状である。
極端な例をあげれば、父母は総連、兄は民団、弟は平壌、妹はソウル、叔母は日本国籍、子どもは朝鮮学校に通い韓国への留学を望み、祖父母の法事には一つに交わっている。家族を愛するように他人に対しても思いやれないものか。あらゆる場での在日の交流を強く望む。
共同声明が出される度に一時南北交流が盛んになるが、在日にとっては韓国への門戸が広くなるだけで、北への道は遠ざかるばかりである。南北分断の責任を負う日本の中で、今日まで南北の政治や思想に翻弄され、夢を見ては破られ、裏切られてきたのが在日である。
塗炭の苦しみを受けた一世の痛みを少しでもやわらげ、人としての尊厳と民族の誇りをかけて、統一を熱望したい。
そのためにまず、北韓は金正日委員長のソウル訪問など南北共同宣言の約束を履行し、6カ国協議など平和のための枠組みを尊重することだ。
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核での威嚇許せぬ…被爆同胞いまも後遺症
安度栄(広島県・自営業)
先の大戦が終了する直前の45年8月6日、広島市に原爆が投下された。たった一発の原爆で、県を代表する都市が壊滅した。北が保有を宣言した原爆は、広島型の「小型原爆」という感じで語られることがある。あたかも、破壊力が小さな印象を与える。これはとんでもない誤解だ。
広島に投下された原爆の威力は、想像以上のものである。私の両親は被爆者で、その凄まじさをよく聞かされた。投下された周辺は全てのものが、溶けてなくなった。川に黒く短い材木がたくさん流れていると思ったら、それは黒焦げの死体だった。また、そこら中の道路にも墨のようになった黒焦げの死体が転がっていた。
そのような悲惨な話はそこら中にある。しかも、その凄惨な現場には徴用で広島に来ていた同胞が数万人もいた。原爆被害にあい、現在も後遺症に苦しむ人が在日だけでなく韓国や北韓にいる。よく言うではないか。日本は唯一の被爆国であっても、唯一の被爆民族ではないと。核所有を宣言している北朝鮮には嫌悪感を覚える。広島の総連系同胞でさえ核保有については懸念や不満を持っているはずである。
核兵器を交渉の道具に使おうとするのは愚かだ。米日同盟をどれほど威嚇できるというのか。先制攻撃の口実にされる可能性のほうが大きい。そうなれば韓国は完全に巻き込まれる。都合のいいときだけ、「民族は一体」を掲げる北は、自国民だけでなく韓国国民をも人質に、危険な瀬戸際政策をとっている。北の為政者は、直ちに核開発を放棄して、韓国や米日との真摯な対話に臨むべきである。統一問題の第一当事者である韓国も声を大にして、政策転換を迫らなければならない。
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目覚めよ自由祖国…永久平和へ心を鬼にも
李康九(岡山市倍達老人会会長)
自由の宝は、天から降ってこない、戦って得た褒美なのです。今こそ、自由人は目を覚まして自由祖国は何処へ去(い)くのか再確認をしようではありませんか。
大韓民国の生い立ちは、国連軍兵士と民族主義者の血と汗で築きあげた城なのです。北の独裁共産党は、私たちの親兄弟を抹殺し、自由の宝を奪おうと企てたのです。これだけは子々孫々忘れてはなりません。南北は別々に国連に加入し、国際法的には他国なのです。また終戦ではなく停戦中なのです。
今こそ心を鬼にして、援助は国連を通してやるべきです。国民の知らない裏で援助することは憲法違反であり、北に対しての内政干渉そのものです。また、金正日政権が延命すればするほど北の国民は地獄で塗炭の苦しみを負うのです。
今私たちは、知らず知らずのうちに歴史に汚点を残そうとしているのです。それならどうすればよいか。
待つことなのです。国防を強くして待つのです。38度線のあなぐらから狐が出るか狸が出るか待つのです。彼らの運命は彼らが決めることです。
永久の平和を望むのであれば、南北の結婚式(統一)は急ぐことはありません。愛情のない者同士が結婚しても、やがて悲劇を生むだけです。愛情を育ててからでも遅くありません。
いま北に何度上納金を持って参上しても平和を売ってくれません。一人の拉致者も還ってこないのは何故?
国民は知る術もなく、雲の上の人たちの後姿を見て「南無阿弥陀仏」「アーメン」と祈ることしかありません。
自由祖国、大韓民国は何処へ去く。
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北の現実直視が先決…歴史が示す真の同胞愛
金一男(民団川崎支部副議長)
歴史的にも、韓半島における統一問題はすぐれてイデオロギー的なテーマであった。統一後の国家像を社会主義・共産主義とするか、あるいは自由主義とするかによって、政治的な党派を分かち、アプローチの仕方を異にした政治課題であった。ただしその選択が東西冷戦下の厳しい環境において、拒むことのできない米ソからの外圧のもとで行われたことを忘れてはならない。この認識が、問題解決のための当面の方法論を、非冷戦的な方向において、すなわち同胞愛を基礎とした平和的な方向と手段において規定することになるからである。
分断期間の前半において、北の権力が南に対して優勢な印象を内外に与えたのは、北の権力の正統性によるよりは、もっぱら共産主義に対する理念的な支持、あるいは心情的な共鳴に基づいていた。今日において北が劣勢であるのは、共産主義の現実の生活が熟知され、それに対する失望によってその支持が失われたからである。
広義の社会主義においてかつて主流をなしたマルクス主義は、アナキズム(無政府主義)との論争をとおして形成されたが、反権力・反国家の思想においてはそれをアナキズムとともに理念的本質として共有していた。彼らが目指していたものは、あくまで「国家の死滅」であり、権力構造そのものの解体であって、階級としての労働者を動力とする純粋かつ自律的な市民社会の出現を期待したのである。ここでの平等は、権力の政治的性格の清算、社会の統制的構造の解体を不可欠の前提としていた。
マルクス思想の柱
ちなみに、かつて共産主義運動の看板であった「プロレタリアートの独裁」は、マルクスの思想のレーニン的な歪曲であった。マルクスは1851年の「フランスの階級闘争」の中ではじめて、「ブルジョワの独裁」を非難しながらこの言葉を使うのであるが、52年にかけて数回この言葉を使った後は53年以降、83年に死ぬまでぷっつりとこの言葉の使用をやめている。「ブルジョワの独裁」を非難しながら「プロレタリアの独裁」を叫ぶことの理念的な自己矛盾と、その政治的な危険性の深刻さに気づいたからと考えられる。
事実、「プロレタリアの階級独裁」はやがて「一党の独裁」に転じ、さらに指導者の神格化を戦術的に採用することによって「個人独裁」に転移し、スターリニズムという究極の権威主義統治へと転落していった。分配の公平を期するための計画経済の構想において、中央の経済的指令機関への極端な権力集中の結果であった。その結果、人間は批判精神を麻痺させられて羊となった。疎外からの人間の解放を求めたマルクスの思想は、その実践において集団主義の悪平等へと堕落し、人間を疎外し束縛するものとして終焉したのである。
極東の小国における国家社会主義の世襲王朝もまた、このようにして生み落とされた奇形であった。そこでの「ウリ式」とは、「他人の話にはいっさい耳を貸すな」、「将軍様の命令だけに従え」という、理性を麻痺させるための非人間的な情報統制の一形式である。
アダム・スミスが1776年に掲げた「市場原理」の根幹は、「独占の排除」にあるのであって、「自由放任」にあるのではない。そこでの「自由競争」はあくまで「公正性」と「透明性」とを前提にした。スミスを「放任」においてのみ読むならば、世代交替を通じての「既得権益」の蓄積による「不公正」は見過ごされる。「市場原理」は、社会の中の所得の格差を隠蔽するウソになる。現在、世界中にひろがっている国家間と国家内部における格差の相対的な拡大がそれを物語っている。「市場原理」は、その必須条件である「機会均等」を不断に確保するための修正努力を要求しているのである。
スミスを「放任」においてのみ読んだマルクスの資本主義批判は結局、その代案として修正不能な権力的独占体を提出して終わった。こうして、「自由な結合された労働」(『フランスにおける内乱』/マルクス、1871)という経済構想の素描は、「計画経済」という権力的な統制経済体系に短絡され、人間を窒息させる社会をつくり出した。
ウソにウソ重ねて
45年からの北の指導部は、まさにこの道をまっしぐらに進んだのであった。北の失敗は、努力の不足によるものでもなければ、国際環境の悪条件によるものでもない。まさに、その理念そのものに失敗の原因をはじめから持っていたのである。その結果、ウソにウソをかさね、過ちに過ちをかさねながら、内外に犠牲を拡大し続けて今日に至った。
祖国の統一という重大な問題に対して、イデオロギー的にアプローチするのならば、イデオロギー的な内省が反復されるべきである。また、単純に国土を統合し権力を単一化するという意味での機能的方法において接近するのならば、純粋に機能的な思考が冷静になされるべきである。金日成氏と朴正煕氏のそれぞれの独裁、「共産独裁」と「開発独裁」の時代に、各個人が二つの体制に対してどのような位置関係にあったか、またその時どんな苦労をしたかしなかったかは、問題にならない。68年の1月21日を分岐点として、それ以降に各自がどのような立場をとったかをこそ問題にすべきであろう。
朝鮮労働党は31人の武装部隊を南の大統領官邸に送った。そしてこのテロ戦術をもって北は、「南朝鮮における人民の武装蜂起」としてこれを位置づけ、南に革命情勢が爆発的に発展しているとの大宣伝を続けた。このウソこそは、かつて朝鮮戦争を南側の挑発によるものとしたウソの体質と軌を一にするものであって、労働党の思想的な堕落ぶりと無責任とを再び示すものであった。この時、労働党は反統一的な反動権力へと完全に転落したのである。祖国統一への道程はこの事件によってさらに複雑な軌跡をたどることとなる。
かつて北当局とその追随者たちは、「祖国解放戦争」という口実によって韓国戦争における100万人を超す死者と国土の廃墟化という重大な過ちを言いつくろった。もしも、この「1・21」テロという危険な火遊びを、ベトナム戦争への援護射撃として言いつくろうならば、それは労働党の自民族への無責任を証明するものであり、南への軍事的な内部攪乱によって自己の優位を維持しようとしたのならば、それもまた、北権力の同胞愛の欠如と冒険主義的体質とを物語るものであった。
結局、このウソはもう一つの重大な過ちとして朝鮮労働党の歴史を飾って終わったのであるが、真に同胞と国を愛し、真に祖国の統一を望む者ならば、この事実は重いものでなければならない。この真実に目をつぶり、北の権力への批判をためらった者たちこそは、誠実をよそおって権力ゲームにうつつをぬかすペテン師であり、北当局の過ちを後押しすることによって、祖国統一運動の困難な旅程において民族を裏切った人々だったと言わなければならない。
支援と批判不可分
現在の日本について、しばしば政治の反動化と軍国主義化が語られる。しかし、だれもが心の中では理解しているように、かつては韓国戦争の挑発が、そして今は拉致問題と核による威嚇とが、日本の政治に大きく影を落としていることを、わたしたちは率直に認めざるをえない。北当局との対話と北の人民への支援事業とにおいて、批判が欠落することはもはや許されない局面に達している。
(2005.06.08 民団新聞)