掲載日 : [2005-06-22] 照会数 : 8956
特集 国交40周年…「厄介者」転じ「架け橋」に
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「日本人になれというのか」
民団団長、韓国政府代表へ反論…交渉者回顧
韓日会談締結前後の時期に36歳の若さで外務部長官を務め、韓国代表として条約に署名した李東元氏は、著書『大統領を懐かしみながら』(92年。韓国・高麗苑刊)で、難航した法的地位問題について、当事者である在日同胞の多くの耳目が後ろに控えており、双方の実務陣で何とかなるものではなかったと振り返っている。韓国代表団の顧問として活躍した権逸民団中央団長(当時)とのやり取りは興味深い。
ユダヤ人と違う
韓国は当初から、国籍は韓国でも無条件に日本人と同等の待遇を受けてしかるべきだという主張だった。しかし日本側は、国籍が韓国なら外国人であり、日本人と同等とはいかないとの態度だった。双方ともそれぞれの矛盾点を認めていただけに、いっそう困難だった。
それゆえ私は、こんなふうに考えていた。「いっそのこと、在日同胞はアメリカのユダヤ人のようになった方がいいのではないか。国籍が日本になっても血はわれわれの血ではないか。とにかく形式より実利を取ろう…」。思えば随分軽率な考えだが、当時はそれが考えあぐねた末の結論であった。
しかし、若さゆえの単純な考えはすぐに打ち砕かれた。
「何をおっしゃるんですか。私たちに日本人になれと? 一体これまで私たちがどんな目にあってきたかご存知でしょうか?」。権逸団長は、呆れたように私を見つめる。私は内心、「しまった」と思った。彼らの日本への言うに言われぬ感情を無視、逆なでしたのだ。
同胞が抱いた恨
「それにユダヤ人と私たちは違います。彼らはアメリカに敵対感がないからそれが可能ですが、私たちは日本に恨が積もり積もっています。生活の根拠がこちらにあるため帰国できないとはいえ、私たちは『朝鮮人』というこの一点に慰めを見出しているのに、それを捨てろと…」。
「分かりました。すみません」。私は今にも泣き出しそうな彼の言葉をあわててさえぎった。「私の考えが足りませんでした。誇り高い同胞に帰化云々などといって、傷つけてしまいました。申し訳ありません」。
65年3月23日から5日間の滞在で一括妥結する予定だった李長官は、法的地位の詰めが難航し、滞在を6日間延長した4月3日早朝5時半に妥結に漕ぎつけたと語った。後代の永住権問題を再協議に託したのは気がかりであったとしながらも、当時としてはそれがベストではなかったかとも述べた。
日本が犯した罪
李氏はまた、在日同胞向け月刊誌「アプロ21」97年6月号に、「在日同胞が見えていなかった」と題して寄稿し、法的地位問題について石井光次郎法相、椎名悦三郎外相と語り合った内容をこう紹介した。
石井さんは私にこう言った。「日本は在日韓国人に二度罪を犯した。戦争目的のために労働力を確保する目的で、『内鮮一体』という名分で強制的に連行し、奴隷のようにこき使った。ところが敗戦後、『内鮮一体』は捨て去り、同じ日本人ではなく朝鮮人だとして差別し、虐待しました。まったくのご都合主義で、恥ずかしい限りです。日本人の政治文化水準はこの程度です。日本は在日韓国人を虐待しながら、一方では自分たちは天から特別に選ばれた民族だと独りよがりの誇りを持っている。これは、過去100年以上も根づいた日本特有の国粋主義的な教育によって日本人が洗脳された被害の遺産のようです」。
私は次のように答えた。「かつての帝国主義時代には民族優越主義教育がはやったし、また政治家も国家的野望のためそれをよしとした。国民感情を悪用し、結局は国民に悲運をもたらしました。いまや、新しい民主主義の歴史が始まった。それに沿って政治家は使命感を持って国民に範を示し、導いていかねばなりません。そうした意味で、在日韓国人の処遇改善問題は日本の踏み絵となるはずです」。
これを聞いていた椎名さんは、「いま問題になっている在日韓国人は何人いるのかね」と私にたずね、石井さんにこう言った。「帰るべき人は帰った後の、60万の方々を日本人と同等に扱うことがそんなに難しいのかね?」。石井さんの返事は苦渋に満ちたものだった。
「私もそう考えています。ところが、日本は官僚の力が強すぎ、また言論を通じての国民感情があって、私の思い通りにはいきません。日本の大臣は名ばかりで、官僚のいわば刺身のツマのようなものです。恥ずかしい話ですが、これが現実です…」。
判定は次代の人
李氏はさきの著書で、妥結後の語らいの席で91年再協議の話題になったときの佐藤首相の言葉を紹介した。
「ここに座っている人のなかで、そのときまで生きている人はいないだろうね。あ、そこの李長官はどうか知らないけれど。とにかく我々がこうして道を開いておいたから、我々の死後には本当によくなることでしょう」。
(2005.06.22 民団新聞)