掲載日 : [2005-07-27] 照会数 : 6387
また8・6がやって来る…織井 青吾(作家)
8月6日がくると、やはり思い出すのは、清水仁三郎こと韓仁守の人生である。
小学生時代をともにすごした、いわゆる竹馬の友、韓国で言う〞プルアル・チング〟であった。1989年、ソウル・オリンピックの翌年に、慶南の寒村〞陝川〟で43年振りの再会を果し、その6年後になる95年に世を去った。
当時、清水もわたしも中学生で、場所はそれぞれ違ったが、広島の爆心地から約1600㍍の地点で原子爆弾を浴び、共々かなりの火傷を負った。
生前、その彼が密かに、わたしに語ってくれたことがある。
比治山本町の被災現場から、清水やわたし達が住んでいた旭町までの最短距離は、すぐ近くにあった暁舞台の前を通る道を行けばいい。1㌔ばかりで帰れる。
清水は、まず学校へ行こうとしたが、火傷のひどい彼をひとめ見て、引率の教師が、すぐ家に帰るよう命じた。清水は旭町の家を目指したが、敢えて最短距離を避け、その倍以上の時間がかかる段原を迂回して家に辿りついたという。
つまり、暁部隊の兵舎を避けたのである。清水が、父親から関東大震災での同胞虐殺のことを直接聞いたのは、原爆の後であったというが、果してどうか。「…分からんが、ただ危ない思うたから…なんとなく…」。
話はそこで切れ、間もなく彼は逝った‐。
直感で兵営を避けたのか。いや、身体が覚えてたのであろう。わたしに劣らず、あれだけ軍国少年であった清水が‐である。それは、民族の血ではなかったろうか。
この8・6を前に、今にして思う。
(2005.07.27 民団新聞)