掲載日 : [2005-08-15] 照会数 : 12986
<光復節60周年>未解決の懸案なお多々
[ 「強制執行反対」の立て看板が並ぶ京都府宇治市ウトロ地区 ]
[ 段ボール箱に合葬され、身元がわからなくなった同胞の遺骨=05年2月、埼玉・金乗院で ]
韓・日両国間のはざまに置かれ、未解決のまま積み残された懸案がいくつもある。従軍慰安婦などの問題もあるが、日本政府からは「韓日基本条約で国家間の賠償と財産請求権の問題は解決済み」と切り捨てられ、いまだに解決のメドがたっていない在日同胞の問題もある。今年は日本の戦後60周年の節目の年。象徴的な5つの懸案について現状をまとめた。
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やっと議員立法の動き…【B・C級戦犯の補償】
日本の敗戦後、いわれなき俘虜虐待の罪を負わされた韓国人軍属。軍事法廷で23人が「戦犯」として処刑され、125人が有期刑を受けて服役した。解放後、間もなく移管先の巣鴨プリズンで刑期を終えた。仮釈放されたときは日本人ではなくなっていた。
このときを待っていたかのように日本人には軍人恩給が復活し、54年には戦犯者刑死遺族に公務扶助料を支給した。韓国人には53年以降拘禁1年につき1人あたりわずか12000円が支払われただけだった。
なんら補償もなく、罪のみ重くのしかかった。身寄りも経済的基盤もないなかで生計手段を確保するのは至難。帰国するにも「戦争犯罪者」「対日協力者」という民族的な負い目から日本に踏みとどまらざるをえなかった。厭世感から2人が自殺し、1人は精神分裂を患い、病死した。
これ以上、犠牲者を出したくないと会員70人で「韓国出身戦犯者・同進会」を結成した。55年4月のことだった。以来、半世紀にわたり日本政府に条理に基づく謝罪と国家補償を要求し続けている。司法は立法による解決を促した。これを受け「象徴的な補償」を実現しようとようやく議員立法化の動きも見られる。
「同進会」会員50人のうち、日本に在住する本人世帯は13人。残された時間は限られている。
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日本側に道義的な責務…【徴用同胞の遺骨放置】
太平洋戦争中、北海道から九州まで日本全国の炭鉱や工場などに駆り出されて労働を強いられ、命を落とした徴用韓国人の遺骨は、大多数がいまも遺族のもとに帰っていない。無縁故遺骨であれば各地の民団の努力で韓国「望郷の丘」に奉還されている。これはまだ幸いといえる。浮島丸事件の被害者のように火葬された後に合葬されたり、甚だしくは粉骨されるなどして誰のものなのか判別できないケースも多いからだ。韓国政府は04年12月、遺骨収集への協力を日本政府に求めた。これは解放後初めてのことだ。日本政府は徴用に関わった100社のほか、遺骨が仮安置されているとみられる全国の寺院、および埋火葬に関する資料を保存している自治体にも協力を求めている。
だが、解放後60年も徴用韓国人の遺骨についてなんら対策を取らず、放置してきた日本政府の道義的な責任は免れない。時が経過すればするほど遺族探しは困難を極めるからだ。
これとは裏腹に日本政府は、52年から旧日本軍軍人、軍属の遺骨収集を300回余り行い24万体を収集した。99年からは遺族の強い要求でDNA鑑定を行うなど、遺骨追跡調査と確認、返還にも莫大な資金をつぎ込んでいる。
今後、遺骨がみつかれば日本政府の責任で死因を明らかにし、謝罪・補償を含めて誠実に遺族に対処することが求められている。
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来日申請義務化は不当…【在韓被爆者への手帳】
在外被爆者に「原爆特別措置法を適用しない」と定めた旧厚生省通達が03年3月に廃止され、健康管理手当は出国で打ち切られることはなくなった。渡日して被爆者健康手帳の交付を受け、健康管理手当(毎月約3万3000円)の受給権を取得すれば、日本を出国しても立場は保障される。
在韓被爆者の孫振斗さんが被爆者手帳の交付をめぐって78年に最高裁で勝利した実績を踏み台に今度は郭貴勲さんが、日本国内の被爆者と同様の被爆者援護法の適用を勝ち取った。
朗報なのは事実だが、依然として日本に来なければ被爆者手帳の受給ができないなど、在外被爆者の要求に十分応え切れていない。病床にあって毎日を生活に追われている在韓被爆者にとっても根本的解決策とはいえない。
なぜ、在外公館で申請できないのか。
被爆者援護法は国家補償法的性格を併せ持ち、被爆者を定義するにあたって国籍による区別をしていない。被爆者が外国に出国していてもその地位を保障しているからだ。被爆者健康手帳の交付を含めて日本国外からの郵送や在外公館を通じての交付申請を認めるべきだろう。
韓国が認定した在韓被爆者数は2204人(02年12月現在)。日本に来て申請すれば手当の受給権を得られるが、高齢化が進み、来たくても来られない人たちが大半であることを直視すべきだ。
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立ち退き強要どう打開…【ウトロ地区居住問題】
京都府宇治市伊勢田町ウトロ。面積2万1000平方㍍に65世帯200人が暮らす。司法は住民がここに暮らす権利がないと判断したため、法的にいえばいつ強制立ち退きをされても不思議はない。
この土地は戦前、京都飛行場を建設するため京都府が買収したもの。日本国際航空工業の名前で所有権登記した。建設工事には強靱な労働力として1300人の韓国人が全国から集められ、飯場を形成した。だが、格納庫ができあがったところで敗戦を迎えた。韓国人労働者はどこに行くあてもなく放り出され、住み着いた。
土地は地上げ屋の手で次々と転売され、88年から立ち退き問題が発生した。住民からは「ここに住めといわれてずっと住んできた。なぜ裁判所に呼ばれて、私たちが被告といわれなければならないのか。それがいまいちばん悔しい」と話す。
町内会や支援組織は行政に土地の買い取りなどを求めてきたが、行政は「日韓条約で補償問題は決着している。民事で解決する問題だ」と消極的だ。見るに見かねて韓日の市民団体が4月に「ウトロ国際対策会議」を発足させ、募金を展開している。
現在の名義人からは土地の買い取りを非公式に打診されている。だが、自己資金のある人は少ない。住民側は駐大阪総領事館や民団、総連にも支援を要請する方針だ。15日には現地で募金を兼ねて大規模な支援コンサートを開く。解放60年目にしてウトロ問題はようやく新たな局面に入っている。
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速やかな救済措置必要…【障害・高齢者の無年金】
59年、「国民皆年金」を理念に年金制度が設立されたが、国籍要件のため在日外国人は加入することすらできなかった。82年、日本の難民条約批准により国籍要件は撤廃されたが、その時点で35歳以上の人は老齢年金、20歳以上の障害者は障害年金から排除された。
国民年金は20歳から60歳までに25年間、年金をかけてはじめて支給される。無年金にならないようにするためには経過措置が必要だったが、日本政府はなんら措置しなかった。これに反して日本国籍者には66年の小笠原復帰、72年の沖縄復帰、94年の中国帰国者、02年の拉致被害者と救済してきた。
85年の年金法改正時には、当時60歳未満の外国人にもカラ期間が適用されたが、短期間、制度に加入しても年金額は1万円前後でなんの救済にもならなかった。今日、在日同胞に多くの無年金者が出ているのは、日本の自国民中心主義によるものだ。
この年金問題は韓日アジア局長会議で毎年、議題に上っているが改善の糸口は見られない。03年には大阪で年金補償裁判が提起されたが敗訴。京都地裁で同様の裁判が続いている。障害者については大阪高裁での裁判が結審したばかりだ。
(2005.08.15 民団新聞)