掲載日 : [2006-11-01] 照会数 : 6126
町と協力、慰霊碑建立も 旧小坂鉱山で同胞遺骨掘り起こし
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「申さんの心のくびき解いてあげたい」 民団埼玉
【埼玉】民団埼玉県本部(鄭平普団長)は第2次大戦中、秋田県鹿角郡小坂町の旧小坂鉱山に強制徴用され、死亡後は卒塔婆も立てられず埋葬されていると見られる同胞の遺骨を掘り起こすことになった。強制徴用の生き証人、申鉉杰さん(82)=同本部顧問=の「同胞の霊を慰めたい」との訴えに応えた。遺骨が見つかれば小坂町の協力を仰ぎ、慰霊事業をしていきたい考えだ。
同胞の遺骨が埋葬されていると見られるのは旧小坂鉱山の敷地からほど近く、大人の背丈ほどの熊笹の生い茂るかつての火葬場の跡地付近だ。よく見ると不自然な石塚が数多く点々と散在しているのが確認されている。
これらの石塚は申さんが2年前現地調査に訪れたとき、偶然見つけた。申さんはどうしてこんなにあるのかと、疑問にかられた。その場を立ち去るときはなぜか、後ろ髪を引かれるようだったと話していることから民団側でも「お墓に間違いないだろう」と見ている。
小坂鉱山に強制徴用されたのは韓国人だけではない。中国人のほか、捕虜になった米軍人も強制労働に従事させられた。過酷な作業に反して食料は乏しく、寒さと栄養不足、さらに落盤事故が重なり、少なくとも30人以上の犠牲者を出した。このうち中国人63体と米国人の遺骨40〜50体についてはすべて米・中両国政府が引き取りを終えている。もし、新たに遺骨が見つかれば、徴用された韓国人犠牲者のものと推定される。
民団側では、申さんの案内で鄭団長と景民杓事務局長の2人が13日から現地入りし、15日まで3日間かけて遺骨の掘り起こしを行う計画だ。申さんから相談を受けた景事務局長は「夢の中であっても霊は祖国に帰りたいはずだ。民団が率先してやらないと、永遠に闇の中に葬りさられる」と話している。
遺骨が見つかれば現場に慰霊碑を建てようとの話も関係者の間から出ている。地元町長も賛同しているとされるだけに自治体と同胞の協力で取り組むことになりそうだ。
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命からがら逃げた 申鉉杰さん
同胞放置、今も胸痛める
申鉉杰さんは44年8月、弟の身代わりとなって強制徴用され、行き先も告げられず厳重な監視のもと小坂鉱山に赴いた。当時21歳。生まれて間もなく1歳の誕生日を迎える長女と新妻を残しての孤独な旅立ちだった。
多少日本語が理解できた申さんは運輸部に配属された。電車やトロッコの走る線路のポイント切り替え作業が主で、実際にトロッコに乗って操作もした。冬は冷たい風が骨の髄まで冷やした。
なにより辛かったのは空腹だった。朝の食事だけではたりず、昼に食べる弁当もそのとき一緒にかきこんだ。おかずは塩を振りかけたいなご7〜8匹だけ。夜は満天の星をながめながら慶北・盈徳郡の故郷に残した妻子を思いやり、涙を流す毎日を送った。
職場では同郷出身の韓国人が「忠誠寮」に約380人。ほかに中国人200人以上、捕虜になった米国人も300人ほどいたという。気がつくと昨日まで元気だった同僚がいつの間にかいなくなっていた。「このままでは死んでしまう」と45年7月、同僚と逃亡した。
小坂鉱山から毛馬内駅に向かって体力の続く限り歩き続け、体力が消耗したころ、側を通りかかった木炭車に助けられた。同胞犠牲者を置き去りにして逃亡したことはいまも負い目となって申さんを苦しめている。
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小坂鉱山とは
1816年に発見され金、銀の鉱山として開発が始まる。1901年には銀の生産高が日本一の鉱山となった。製錬技術の向上につれて黒鉱から採れる銅や亜鉛、鉛の生産が主体となった。元山は日本の敗戦直後には枯渇してしまい、採掘を中止した。現在は精錬所となっている。
(2006.11.1 民団新聞)