掲載日 : [2008-07-30] 照会数 : 6399
統一問題への視点(8) 在日同胞の立場から
[ 1905年、皇城新聞が広開土大王碑の存在を報道、広開土大王は民族の英雄として脚光を浴びた。雪が降る山野を背景に朝鮮人が碑の横に立っている=写真はチョン・ソンギル華城平和公園博物館長所蔵 ]
「わが民族同士」の理念(中)
共有すべき「民族」創造の情念
許せぬ政略利用…歴史的努力を踏みにじる
私たちがふつう口にする「わが民族(意識)」とは、かつては日本の侵略・植民地支配から民族を守り、独立を希求するものであったし、分断から60年になる現在にあっても、再統一への基本的な情緒と理論的な根拠を供給するものとしてある。
危機感膨らみ急速に形成へ
どの民族も最初から「民族」だったわけではない。民族意識とその伝統的な生命力はそもそも、いつどのようにして培われたのか。民族主義から政略的な企図を取り除くために、「わが民族」と民族主義の歴史を概観しておく必要がある
結論から言えば、1890年代から1919年の3・1独立運動までの間に急速に形成され、その後の抗日独立運動を通して鍛えられたものだ。韓半島はこの時期、巨大な変化の渦に見舞われ、否応もなく国際システムに組み込まれていった。日本によって国家と領土が奪われ、植民地へと転落していく過程は、知識人を中心に民族的な自尊心を芽生えさせ、奮い立たせずにはおかなかった。
わが民族の民族主義は欧米列強による東アジアの侵食が進み、老大国・中国と新興国・日本の韓半島をめぐる角逐が強まるなか、東洋3国の結合によって欧米列強に対抗しようとする汎アジア主義の一角を構成しつつ台頭した。それはまず、中国を頂点とした華夷秩序からわが民族を引き離し、独自史観を紡ぎだすことから始まった。しかし、清日戦争後に日本の植民地支配への野欲が明瞭になるにつれ、日本への抵抗を可能にする自律性の創造が軸となった。
近代世界のなかで相対的に不利な地位にある人々が何とか現実に適応しようとするとき、歴史、伝統そして民族の言語の神秘的な力についての民族主義的な言説が生まれる(アーネスト・ゲルナー『民族と民族主義』1983年)。わが民族のナショナリズムもまさに、危機のなかで形成されたのだ。
日本帝国主義は朝鮮を中国の単なる属邦と見なし、独自性・自律性が希薄な民族自決に値しない集団と規定することで、植民地政策を合理化した。しかも当時、わが民族史の研究においてさえ日本がはるかに先行しており、史料・情報の多くを独占する状態にあった。「わが民族」を創造することは決して容易ではなかったのである。
先行する日本が張り巡らせた史料・情報の壁と、それを突き破って行く「わが民族」のせめぎ合いは、広開土王碑問題に端的に表れた。この碑が中国によって発掘されたのは1882年。韓半島の史実歪曲に懸命だった日本は、陸軍情報将校を派遣して碑文の拓本をとり、自らの侵略政策に都合よく解釈した。後に、日本による碑文の改竄問題が提起され、現在も論争が続いている。
広開土王碑と檀君建国神話
韓半島で初めて広開土王碑の存在が報じられたのは、発掘から20余年後の1905年、渡日留学生の情報によってであった。その経緯はともかく、広開土王が中国と戦って勝利し、満州一帯に高句麗最大の版図を築いたという歴史事実は、わが民族を勇躍させた。
民族主義者たちによって、過去の歴史書には明確に記録されていなかった民族の偉大な英雄や事績が次々に掘り起こされていた最中であった。小規模な分遣隊を率いて隋の30万大軍を潰走させた高句麗の乙支文徳は、4千余年におよぶ民族史で第一の偉人として顕著に復活した。豊臣秀吉の侵略を撃退した李舜臣の再照明は、言うまでもない。
また、民族主義者は1895年以降、民族固有の文字ハングルの普及に力を入れ、世界最古の金属活字の存在や民族美の象徴としての陶磁器など文化の面にもスポットを当てた。英雄を敬い、文化の美を讃えながら、民族独自の歴史編成に心血を注いだのである。
そうしたなかで、「わが民族」形成に決定的な役割を果たしたのが檀君神話だ。建国神話に脚光を当て、族譜の伝統を用いて檀君と民族とを結びつけたのである。主体性の新たな概念である民族をその淵源から意識させ、古代から脈々と続く「わが民族」に基盤を置く国家の概念を、広く普及させることになった。
朝鮮朝の初期に箕子と同等に扱われた檀君は、儒教的な統治が強化される過程で、最初の儒教文化の伝達者とされる箕子によって後方に追いやられた。檀君神話の再浮上は、箕子を中国人と見なす学説ともあいまって、中国に並び立つ「わが民族」を想像し、創り出すテコとなった。
日帝に抗して堅固な民族に
「民族」形成と朝鮮朝の関係について、二つ指摘しておく。まず、中央集権的な官僚制のもとで比較的安定した領域を管理し、国境画定については中国の強硬策にも一歩も退かず、主権の概念が普及する前から領土の概念が強くあった。さらに、偉大な儒教の伝達者である箕子の後裔を自認することで、朝鮮朝廷は華夷秩序の中心にある中国朝廷と対等であるとの意識を持ち続けてきた。
民族主義者たちが民衆に、「わが民族」の存在を歴然たる事実として急速に認識させ得た背景には、近代以前から民族的アイデンティティーの基盤となる下地が存在していたことがあった。
3・1独立運動は日本当局の報告でも、示威参加者が200万人を超えただけではない。すべての社会的、経済的な階級や性別、地方の如何を問わなかった。権威主義的な両班に対しては一庶民に過ぎなくとも、日本帝国主義に対したとき、光栄ある過去と未来を持つ強力な民族の一員となったのである。民族主義は伝統的な権威主義にはない、極めて高い大衆動員力を持つという歴史的事実を、わが民族もまた証明した。
3・1独立運動後、民族主義は左右に分裂していった。そして今日、北韓では独裁に奉仕する歪んだ道具に堕落させられている。しかし、「わが民族」の民族主義にとって、その最初の象徴的発露が3・1運動にあることは否定できない。私たちは南北と海外を問わず、「わが民族」の存在を歴然の事実として創造した民族主義的知識人の思いを共有すべきときにある。
(2008.7.30 民団新聞)