3・1で一挙に普及1882年から図案化1948年大韓民国政府の樹立をきっかけに国旗の図案と規格が統一された現在の太極旗
韓国の文化財庁はこのほど、歴史的価値の高い太極旗15点を文化財として登録する方針だと発表した。そのうち最も古いのは1890年、朝鮮朝第26代の高宗が、当時の外交顧問だった米国人O・Nデニーに下賜した「デニーの太極旗」(国立中央博物館蔵)になる。このほか1908年に、開校と同時に校庭に掲揚された「同徳女子義塾の太極旗」、大韓民国臨時政府主席だった金九が、1941年にベルギー人神父に渡した「署名入り太極旗」など。1883年に朝鮮政府が正式に国旗として発表し、1948年に大韓民国政府が樹立された翌年に、現在の太極旗が韓国の国旗として認められるまで、激動の時代を歩んだ太極旗の変遷をたどる。
これまで韓国の太極旗を最初に考案したのは、朝鮮朝高宗時代の1882年9月、第3次修信使節団員の一人として日本へ派遣された朴泳孝とされてきた。
国旗の制定が初めて論じられたのは1876年1月のこと。その後も活発な論議がされるなか、国旗制定のきっかけになったのは、1880年10月に第2次修信使として日本に派遣された金弘集が、駐日清国参事官黄遵憲から譲り受けた書物「朝鮮策略」を持ち帰って、高宗に献上したことから始まる。
「朝鮮策略」は外交問題を扱った書物だが、朝鮮の国旗の図案についての言及があったとされている。
1882年に行われた朝米修好通商条約締結を斡旋するために訪れた清国代表と金弘集との会談で、清国から国旗の必要性や具体的な図案の提案があり、これを金弘集は受け入れた。この時点まで国旗がなかったからだ。
会談から1カ月後には、同条約締結の際に通訳官を務めた李応俊が太極旗を考案した。この太極旗は調印式で掲揚されたという。
朴泳孝考案説についてだが、1982年9月に朴泳孝が李応俊の国旗を参考にした太極旗がある。
四隅にある「天(乾)、地(坤)、日(離)、月(坎)」の4掛の左右が、李応俊考案の国旗とは反対に描かれており、これが1883年に正式に国旗として採択された。
一説によると、3・1独立運動当日、ソウルのパゴダ公園(現・タプコル公園)に集まった民衆の誰もが「旗」を持つようになっていた。
実はこの太極旗は1882年に作られてから、1919年3月1日の独立運動まで、「朝鮮国旗」と呼ばれていた。日本人たちに分からないようにするため「太極旗」と呼ぶことになり、それが全土に広がったとされる。
太極旗は白地に太極文様と四隅の乾、坤、坎、離の四掛で構成されている。
白地は明るさと純粋、そして平和を愛する精神を表している。中央に描かれた太極文様は陰(青)と陽(赤)の調和により万物を創造する創造の精神を表し乾と坤が無窮の精神、離と坎が光明の精神を表し、正義、豊かさ、生命力、知恵を意味するなど、太極旗には韓民族の人生観が込められている。
太極旗は広く一般に普及したが統一性がなく、図案も変遷してきた。現在のものに落ちつくまで太極旗も韓民族同様、大きな時代のうねりのなかを歩んだ。
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歴史的価値高い太極旗が文化財にデニーの太極旗写真左
最も古いのは、国立中央博物館が所蔵している「デニーの太極旗」。1890年、高宗が当時外交顧問だった米国人O・Nデニーに下賜したもので、現在韓国国内にある実物の太極旗の中では最も古い。1886年から90年まで朝鮮で活動していたデニーが帰国する際に持ち帰ったものを、彼の子孫が1981年に韓国へ寄贈した。縦182・5セン
チ、横262センチという大型。
金九の署名入り太極旗写真右
「金九の署名入り太極旗」は、大韓民国臨時政府主席だった金九が、1941年に中国から米国に向かうベルギー人神父に渡した。後に安昌浩夫人、イ・ヘリョン女史の手に渡り、それを遺族が1985年に独立記念館へ寄贈した。同胞に光復軍支援を頼む金九の直筆文が旗の右側に書かれている。
バスビア寄贈太極旗写真左
河南歴史博物館にある米国海兵隊員「バスビア寄贈太極旗」は、1950年に6・25戦争に参戦した米国人A・Wバスビアが、ソウル奪回時に市民から受け取った。2005年に京畿道河南市に寄贈された。
escortegeneve.chアストリア・ホテルの太極旗写真右
国会の憲政記念館にあるニューヨークの「アストリア・ホテルに掲揚された太極旗」は、植民地下の1930年代に米国ワシントンの旗メーカーが作った。
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1884年 政府機関で作った太極旗発見 1884年に朝鮮政府が公式に印刷し、外国の公館に配布したと推測される太極旗が発見された。
この太極旗は英国立公文書館に所蔵されていたもので、独立記念館と東国大学歴史教育学科の韓哲昊教授が共同で発見した。
1884年6月は「朴泳孝太極旗」が正式に国旗と認められたとされる時点から、1年余が過ぎた時期。朴泳孝が制作した太極旗の原本は現存していないが、その写本であると推定されている。
この太極旗の特徴は、四隅に配置されている四掛が太極から遠く離れている。また太極の赤と青が左右に分かれて配置されているのに対し、朴泳孝の太極旗の太極は、上下に分かれているという特徴がある。
「ある時期に国旗のデザインを一部改正しようとしたのでは」と韓教授は話している。
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初期の太極図写真右
ソウル大学校奎章閣所蔵の御旗「太極八卦図」。太極旗以前に太極図を旗として使用した。
同中央
清・李鴻章編『通商章程成案彙編』(1886年)収録。外交資料として各国の国旗を掲載した。
同左
日本の日刊新聞『時事新報』(1882年10月2日)。
朴泳孝ら使節団が日本で使ったものを報道した。
(2008.8.15 民団新聞)