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史実歪曲の単独政府樹立論
実態化で先行した北…46年初には独自の権力組織
46年2月の北朝鮮臨時人民委員会宣布式。「金日成将軍の20個政綱を基礎に朝鮮臨時政府を樹立しよう」との大型宣伝物も
大韓民国政府の初代大統領となる李承晩による南側の単独政府樹立推進が南北分断の永久化をもたらしたとする北韓および一部左派の言説は史実を歪めている。大韓民国はいかに誕生したのか。
李承晩「井邑発言」の意味
米英ソの外相によるモスクワ3相会談の決議により、46年3月20日に開催された第1回米ソ共同委員会は、統一的臨時政府樹立および米英ソ中の4大国が後見する信託統治実施のため、米ソとともに協議に参加する南北政党・社会団体の構成をめぐって暗礁に乗り上げ、5月6日に決裂した。
こうした情勢下の6月3日、李承晩が全羅北道の井邑で、「南だけでも臨時政府もしくは委員会のようなものの」組織を提唱する談話を発表した。
この「井邑発言」が、後の分断政権につながったとして、李承晩は、北韓側から南北分断の元凶のように喧伝されてきた。
しかし、「井邑発言」は、ソ連の指導のもとで着々と金日成中心の「単独政府樹立」を推進する北部の実情をにらんでのものだった。
45年8月9日に朝鮮に進駐したソ連軍は、25日には平壌に司令部を設置し、即日、南北をつなぐ鉄道、電話回線を遮断し、38度線を封鎖して人と物資の往来を閉ざすとともに、「建国準備委員会平安南道委員会」を解体、「平安南道人民政治委員会」に改編した。
10月には、その間モスクワでスターリンの面接を受けた金日成が、平壌のソ連軍歓迎集会でソ連軍の軍服を着て「金日成将軍」として登壇、初めて大衆の前で演説した。
46年2月8日には「北朝鮮臨時人民委員会」が組織された。これは事実上、「北韓地域の単独政府」であり、金日成が委員長に就任した。そして3月5日、無償没収・無償分配を原則とする土地改革法令を発表し、8月10日には産業国有化も実施した。
つまり、第1回米ソ共同委員会が始まる以前の46年2月には、北部にすでに単独の権力主体が強権的に形成されており、3月の時点から早くも法律や統治機構など、今日の北韓の骨格を成す独自の立法行為を通じて、権力を行使していたのである。
李承晩による「井邑発言」は、こうした一連の既成事実のいわば追認にすぎない。北部にはすでに、民族主義者を排除した、実態としての一党独裁的政権が実存する以上、南部でも単独政府を打ち立てざるを得ないというところに、本質があった。
信託統治をめぐる米ソ共同委員会は47年10月21日、第2回会議の決裂をもって終わった。北韓当局は同年11月には通貨改革を実施、中央銀行券を発行して旧貨幣を破棄した。
米ソ共同委の決裂によって、朝鮮問題は国連に上程され、国連総会は47年11月14日、全朝鮮での統一総選挙の実施を決議した。
ソ連はこの総会決議に欠席し、拒否権も放棄したうえ、選挙の事前準備のために北部への立ち入りを求めた国連臨時朝鮮委員団の受け入れを拒否した。
このため国連総会は48年2月26日、南だけの単独選挙を決議し、48年5月10日のいわゆる「5・10単独選挙」に至る。そして8月15日、大韓民国政府は樹立された。
その半年以上も前の2月8日、「人民軍」まで創設していた北部は、韓国政府の出帆をまって9月9日、親ソ国としての朝鮮民主主義人民共和国を発足させた。ちなみに、この国名はロシア語からの直訳であった。
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平和的政権交代の定着
権力分散へ模索も…権威主義政治の遺産を清算
87年6月、民主化を要求してソウル駅と明洞一帯にすわり込んだ学生と市民
60年前、一人当たり国民所得100㌦未満の世界最貧国の一つとして出発した大韓民国は、誕生まもない時期の同族相食む6・25戦争による国土の廃虚化、その後の南北対峙による過重な国防負担の続く中で、産業化と民主化という二つの歴史的課題を達成し、今日、より高度の先進国化をめざしている。だが、民主化実現・定着までの道のりは決して平坦ではなかった。
クーデターで一時憲政中断
自由民主主義国家として自由・普通選挙と複数政党制に基づく議会制民主主義を採用したが、李承晩大統領による長期独裁を許した。12年間続いた独裁体制は、60年に不正選挙への抗議から始まり大統領の退陣を求める学生らを中心とした大規模なデモによって終止符が打たれた。
この4・19革命の結果、議院内閣制改憲が行われ第2共和国が発足した。だが、学生デモなどで社会の混乱が続く中、翌年5月に朴正煕少将を中心とした5・16クーデターが起き、憲政が中断された。
この後、発足した第3共和国は強力な大統領中心制を採用し、貧困の解消と祖国近代化をめざして成長第一の経済開発政策を推進した。72年には、平和統一を達成するには国民総和が必要だとして、国民投票で大統領の権限を強化する維新憲法を確定して維新体制を立ち上げた(第4共和国)。大統領選出は間接選挙制度となり、長期執権体制を固めた。
しかし、民主化の流れは止められなかった。79年10月、大規模な維新反対デモなどへの対応をめぐり、朴正煕大統領が側近により射殺され、18年にわたる長期政権は崩壊した。
「12・12粛軍クーデター」で全権を掌握した全斗煥将軍ら新軍部は、翌80年5月、民主化を求める学生らのデモに強硬対応、非常戒厳令を全土に拡大した。これに反対して光州で大規模なデモが起き、軍部の強硬鎮圧・発砲と道庁占拠・武装化を含む市民らの激しい抵抗により多数の犠牲者をだした。5・18光州民主化運動である。
市民の抵抗を力ずくで抑え込んだ新軍部は、執権のために大統領単任7年・間接選挙を柱とする改憲を実施、81年3月に第5共和国を発足させた。だが、民主化運動は粘り強く続いた。87年に入り、大統領直選制改憲などを求めてのデモが拡大。一般市民を含む汎国民的な改憲運動となった。6・10民主抗争である。
87年の民主化抗争が転機に
事態収拾のために与党の盧泰愚大統領候補が直選制改憲、言論の自由保障、地方自治制の実施、大学の自律化などをうたった「6・29民主化宣言」を発表。これ以後、権威主義の清算が始まった。全斗煥大統領は7年単任の約束を守り、平和的政権交代の前例を残した。
与野党合意による改憲で16年ぶりの大統領直接選挙となった87年12月の選挙では盧泰愚候補が当選。第6共和国のスタートとともに韓国の民主化は進展した。
92年の第14代大統領選挙では、与党に合流した野党出身の金泳三候補が当選、32年にわたった軍部(出身)政権時代を終焉させた。「文民政府」は軍人を政治の舞台から排除した。
97年の第15代大統領選挙では野党の金大中候補が勝利し、韓国政治では初の平和裡の与野党政権交代を実現し、「国民の政府」を標榜した。さらに02年の第16代大統領選挙でも民主化勢力出身の盧武鉉候補が大統領に当選、「参与政府」をキャッチフレーズとした。そして昨年の第17代大統領選挙では野党の李明博候補が当選、10年ぶりに保守勢力が政権を奪還した。
5年ごとの民主的選挙による平和的政権交代の定着により、権威主義体制から民主主義体制へ移行するのに成功し、軍人(出身)政権時代が残した権威主義政治の遺産は次第に清算されつつある。
現在、さらなる安定的政治発展のために大統領の権力・責任分散などを含む改憲問題が新たな課題として提起されている。
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「漢江の奇跡」に強い自負
浦項総合製鉄所とならぶ重化学工業化の象徴である蔚山の現代造船所(70年代)
大韓民国建国60周年を迎え、国内有力紙が実施した各種世論調査によると、多くの国民が、最貧国から短期間内に高度経済成長を実現した「漢江の奇跡」に強い自負心を抱いており、建国後最も重要な時期として60年代中盤から70年代までの産業化時期をあげている。また、この60年で最大の業績として経済開発5カ年計画、京釜高速道路の建設と並んでセマウル運動を強調している。
先進化実現の基礎に
国民所得「世界10位圏」めざす
高度成長持続し重化学工業化へ
建国から2年後、北韓の南侵により3年にわたった韓国戦争で国土は荒廃し、国民生活はどん底にまで落ち込んだ。50年代後半以来、経済の再建・自立と貧困打破は国民の念願だった。農業以外に大きな産業はなく、米国からの援助が主要な財源だった。60年の1人当たり国民所得は79㌦にすぎない。
5・16クーデターで権力を握った朴正煕軍事革命政権は経済再建、貧困からの解放を公約として掲げた。62年から経済開発5カ年計画を推進し、世界最貧国中の一つであった韓国を70年代までの短期間のうちに先進国レベルの一歩手前まで成長させた。
当時の驚異的な経済成長を、世界各国は「漢江の奇跡」と呼んで称賛し、発展途上国の成長モデルとなった。
この高度経済成長は、当初労働集約的な産業を中心とする軽工業製品の輸出ドライブ政策から始められ、第2次経済開発5カ年計画中(67〜71年)の年平均成長率は9・7%だった。
70年には京釜高速道路が開通し、同年4月には年産103万㌧規模の浦項総合製鉄所に着工し73年7月竣工した。
第3次5カ年計画(72〜76年)では重化学工業の開発に重点が置かれた。朴正煕大統領は73年1月、「重化学工業化」を宣言。6月には鉄鋼、非鉄金属、機械、造船、電子、化学工業を6大戦略業種に選定し、81年までに輸出100億㌦、1人当たり国民所得1000㌦達成という青写真を示した。ちなみに72年の輸出高は16億㌦、1人当たり国民所得320㌦だった。
「輸出100億㌦・国民所得1000㌦」は目標より4年早く77年末に実現した。
製造業は73年から79年まで年平均16・6%の成長率を記録し、80年には工業における重化学工業の比率が50%を超える水準(54%)にまで拡大した。80年代には電子、自動車、鉄鋼などが輸出の花形となった。
世界トップ水準産業を多数育成
こうした産業政策の転換成功により高度経済成長は90年代初頭まで継続した。86年には貿易収支の黒字転換で、ついに経済自立を達成した。
韓国の産業構造は画期的な変化を遂げた。主要産業は自動車や石油化学、電子、造船、繊維、鉄鋼などに大きく転換した。
その後、構造的な問題であった高い対外依存度と高度成長のひずみが表面化し97年IMF金融危機を迎えることになった。だが、財閥解体等企業と産業の構造調整を通じてこの金融危機を乗り越えたあと、IT産業、自動車、鉄鋼、造船等を始め世界のトップレベルを行く産業の育成を進め、世界13位の経済大国にまで成長した。
95年に1万㌦を突破した1人当たり国民所得は昨年には2万㌦を記録した。
韓国は産業化・民主化を経て先進化という歴史的課題を抱えている。国際的競争力のある産業をもっと多く育成・確保し、現在30位圏の1人当たり国民所得を10位圏に押し上げることをめざしている。
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セマウル運動への高評価
農村の近代化に画期…途上国「貧困打破」のモデル
勤勉・自助・協同国民的運動へと
高度成長が開始された62年以来、都市と農村間の経済的格差が拡大した。このため70年代の朴正煕政府は、落後した農業と農村の近代化のための政策を積極的に推進した。
朴正煕大統領は70年4月の全国地方長官会議で「私たち自らが、自分たちの村を自分たちの手で作っていくという自助自立の精神で、汗を流して働こう」と呼びかけた
同年10月から翌年6月まで、政府は全国の3万3000余りの洞・里にセメント355袋ずつを一律的に支給して各洞・里の環境改善事業に使用させた。
71年に事業の実績を評価した結果、半数近くの1万6000余りの村で政府支給のセメントを利用して村に必要な事業を実施した半面、残りの村では目立った成果がなかった。政府は共同事業の成果があった村に限り再びセメント500袋と鉄筋1㌧ずつを支援した。 韓国国民の圧倒的な支持を受け、建国以来最大の業績と評価されるセマウル(新しい村)運動は、こうして始まった。
セマウル運動は、政府が資金と技術を支援し、農民が労働を提供して農村住民の生活の質を向上させる農村開発運動であった。
農民は政府の差別的・選択的な支援政策に敏感に反応し、農村開発投資にも自発的に積極参与した。「勤勉・自助・協同」をスローガンとするセマウル運動は汎国民的運動へと発展した。
71年から82年までセマウル運動に投資された金額は総5兆2583億ウォンで、このうち政府が51%を投資し、農村住民が残り49%を担当した。
セマウル運動は漸次所得増大、生産基盤造成、精神開発の各分野へと領域を拡大した。同運動に投資された資源中最も比重が大きいのは農閑期生産化と所得作目栽培などの所得増大分野で、総投資額の44%を占めた。農路開発、マウル倉庫建設などの生産基盤造成分野は21%で、福祉・環境分野は29%だった。
都市勤労所得との差をなくす
こうした投資の結果、農家所得が増加。71年は都市勤労者所得の79%にすぎなかったが、82年には103%で、都市勤労者所得を上回った。
農村の生活環境も大幅に改善された。70年に電気が入っていた村は全体の20%だったが、78年には98%まで拡大した。
村の中まで自動車が入ることのできる進入路が整備され、農家の庭にまで耕運機が出入りできるよう村道が拡張された。農路の拡大や村の共同広場をつくるために所有農地を少しずつ提供しあった。相互協同する過程で伝統的社会の村が近代的共同社会に発展した。
韓国の農村開発、地域の均衡開発、意識改革のための農村近代化運動で、「漢江の奇跡」を成し遂げるのに重要な土台となったセマウル運動は、隣国の中国はもとより、東南アジアや中東、アフリカなどの開発途上国で「短期間に都市と農村の格差を縮めるのに成功した貧困打破モデル」として高い評価を受けている。
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大動脈・京釜高速道路の建設…全国「1日生活圏」に統合
本格的自動車時代迎える
「なせば成る」
朴正煕大統領は64年に西ドイツ(当時)を訪問した時、アウトバーン(高速自動車道路)に深い感銘を受けた。
平時の交通に役立つばかりでなく、有事には機械化部隊の迅速な移動も容易にするとの説明も、南北対峙下にある軍出身の大統領の関心をそそるのに十分であった。
帰国後、暇さえできれば紙の上に道路網を描いていた朴大統領は、67年の大統領選挙公約で「ソウルと釜山を結ぶ高速道路の建設」を掲げた。
翌68年には京釜高速道路建設計画を発表した。総延長428㌔の高速道路を上り・下り4車線の幅で工費430億ウォンをかけて建設するというものである。
これに対して野党を中心に「富裕層の遊覧路を作ろうとするのか」「一人当りGNP142㌦の国で必要なのか」「(対日請求権による資金が転用され)韓国経済が日本経済に従属する可能性がある」などと反対世論が起こった。
韓国への借款のヒモを握っていた世界銀行も、投資効率からみて既存の国道を改修する方がはるかに経済的で高速道路建設はむだ遣いだ、と反対した。
だが、朴大統領は、韓国には資本も技術も経験もない状況の中で「なせば成る」の強い意思で反対を押し切った。
路線、工程計画、推進方式を大統領自らが決め、ソウル‐大田、大田‐大邱、大邱‐釜山の3区間にわけ、68年2月に着工し段階的に推進した。
当初計画より1年早く、70年7月、305個(現在353個)の橋梁と12個のトンネルを含む全区間が開通した。これにより、全国がはじめて「1日生活圏」となり、本格的自動車時代を迎えることになる。
これを契機に湖南、嶺東、南海、東海、中部など次々と高速道路が建設され、韓国は完全に単一市場圏に統合された。
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建国60年の歩み
■第1共和国
48年
制憲国会、憲法宣布、大統領に李承晩選出(7月)
大韓民国樹立宣布(8月)
49年
駐日代表部設置(1月)
50年農地改革実施(4月)
6・25韓国戦争勃発(6月)
52年
李承晩「平和ライン」宣布(1月)
53年
休戦協定成立(7月)
韓米相互防衛条約調印(8月)
60年
4・19革命(4月)
内閣責任制改憲(6月)
■第2共和国
60年
張勉内閣成立(8月)
61年
5・16クーデター(5月)
62年
第1次経済開発5カ年計画発表(1月)
■第3共和国
63年
朴正煕第5代大統領就任(12月)
65年
韓日条約批准書交換、韓日国交正常化(12月)
68年
北韓武装ゲリラ青瓦台襲撃(1月)
京釜高速道路起工(2月)※70年7月開通
70年
浦項総合製鉄所起工(4月)※73年7月竣工
71年
セマウル運動開始
72年
7・4南北共同声明発表(7月)
「10月維新」宣布、国会解散、全国に非常戒厳令(10月)
■第4共和国
72年
維新憲法宣布、朴正煕第8代大統領就任(12月)
73年
重化学工業化宣言(1月)
金大中拉致事件(8月)
74年
文世光事件(8月)
77年
輸出100億㌦達成(12月)
79年
10・26事態(朴正煕射殺。10月)12・12粛軍クーデター(12月)
80年
5・18光州民主化運動(5月)
■第5共和国
81年
全斗煥第12代大統領就任(3月)
83年
ラングーン爆弾テロ事件(10月)
85年
南北離散家族相互訪問(9月)
87年
6・29民主化宣言(6月)
大韓航空機爆破テロ事件(11月)
■第6共和国
88年
盧泰愚第13代大統領就任(2月)
ソウル五輪開催(9〜10月)
90年
ソ連と修交(10月)
91年
南北国連同時加盟(9月)
南北基本合意書署名(12月)
韓半島非核化共同宣言署名(12月)92年 中国と修交(8月)
■文民政府
93年
金泳三第14代大統領就任(2月)
金融実名制実施(8月)
96年
OECD加入(10月)
旧朝鮮総督府建物撤去(11月)
97年
IMFと緊急資金支援合意(12月)
■国民の政府
98年
金大中第15代大統領就任(2月)
99年
西海で南北艦艇交戦(6月)
00年
第1回南北首脳会談、6・15南北共同声明発表(6月)
02年
韓日共催W杯、韓国4強進出(5〜6月)
■参与政府
03年
盧武鉉第16代大統領就任(2月)
開城工業団地起工式(6月)
04年
京釜高速鉄道開通(3月)
05年
戸主制、憲法不一致決定(2月)
07年
第2回南北首脳会談(10月)
■李明博政府
08年
李明博第17代大統領就任(2月)
(2008.8.15 民団新聞)