スポーツライター 大島裕史
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56年母国訪問団が野球技術伝えた
ブーム呼び起こす…サッカーも40年代から絆
60年に祖国へ遠征した在日韓国学生体育団のメンバー
W杯韓日共催長沼健の思い
6月に亡くなった日本サッカー協会元会長の長沼健は中央大学の学生時代、東京・銀座の大昌園という韓国料理店にしばしば顔を出していた。
というのも当時の大昌園は、中央大学のハーフ・バックとして活躍していた李錫儀の姉が営んでいたからだ。李は韓国代表にも選ばれたため、長沼とは、大学のチームメートであり、韓日のライバルでもあった。李は若くして亡くなったが、生前、長沼は李について、「ドリブルがうまく、下半身の強い選手でした」と振り返っている。
実は40年代後半、中央大学サッカー部のメンバー11人のうち、10人が在日だったことがあった。在日朝鮮人学生同盟(学同)ではサッカーが盛んで、複数のチームが作れるほどであった。
その一方で中央大学は、戦後の混乱期で選手不足に悩んでいた。そこで当時、中央大学監督であった小野卓爾が、学同のメンバーに、熱心に勧誘したのであった。
長沼が中央大学に在学していた頃は、在日の選手も少なくなっていたが、李錫儀をはじめ接点は残っていた。
後年、長沼は日本サッカー協会会長として、2002年W杯の韓日共催を受諾する。韓日ともに単独開催を目ざし、激しい招致合戦を繰り広げていただけに、決定当初は、しこりが残っていた。
しかし韓国側との懇親会などでの長沼の胸襟を開いた対応に、韓国の人たちも好感を持ち、前向きな雰囲気に変わっていった。長沼のこうした対応も、学生時代、在日の人たちと過ごした経験があったからに違いない。
最後の早慶戦金永祚の功績
長沼が大昌園に出入りする十数年前、早稲田大学の正門近くにあった韓国料理店に、ひょろっと背の高い青年が、コチュジャンのたっぷり入ったスープを、額に汗をためながら、必死に飲み干していた。青年は、当時帝京商業(現、帝京大学高校)に通っていた後の大投手・杉下茂である。
この食堂は、帝京商業野球部の1年先輩である金永祚の両親が営んでいた。金永祚の一家は、全羅北道鎮安で高麗人参を栽培していた。ところが一人息子の永祚を早稲田大学に入学させるべく、1930年、両親は高麗人参畑を売り払い、早稲田大学の正門近くに食堂を開いたのであった。
金永祚は帝京商業時代、東京屈指の強打者として名をはせる一方で、勉学も手を抜かず、43年に憧れの早稲田大学に入学した。しかしこの年、東京六大学野球リーグは戦争のため中止になった。
それでも、『ラストゲーム 最後の早慶戦』として映画化された「出陣学徒壮行早慶戦」にも金は、1年生ながら出場メンバーに選ばれている。
しかし東京への空襲が激しくなる中、金永祚の一家は、早稲田大学への思いを残したまま、故郷に戻ることを決意する。
韓国に戻った金永祚は、解放後の混乱の中でも、強肩強打の捕手として、あるいは名コーチ、名監督として、韓国野球が発展する基礎を築いた。そして81年、58歳でこの世を去っている。
「帝京商業の時にお世話になった先輩が、韓国で活躍していると聞いて嬉しかった。金さんの親の食堂に行った時の、あの辛さは今でも忘れられない」と、杉下は懐かしむ。
栄光はプロで張本や白仁天
69年にプロ野球の東映が訪韓した時の(左から)張本勲、金田留広、白仁天選手
一方、戦後の日本プロ野球史は、通算3085安打の張本勲、400勝の金田正一ら、在日を抜きに語ることができない。
大学に行くには経済的に厳しく、社会人野球チームを持つ大企業は在日に門を閉ざしていた時代、プロ野球こそは、彼らが生きていく手段であった。そして日本社会で認められるには、実績が必要であり、実績とは記録であった。不世出の本塁打王・王貞治も含め、日本プロ野球の記録ホルダーの多くが、アジアにルーツを持つ在日であることは、決して偶然ではない。
そして在日は、韓国野球の発展にも、決定的な寄与をすることになる。その契機となったのが、56年に始まる「在日僑胞学生野球団母国訪問試合」である。甲子園大会に出場できなかった在日の高校球児で構成された野球団は、夏休みを利用して、韓国各地で試合をした。彼らは祖国で熱狂的に迎えられ、球場はどこも大観衆で埋まった。
在日の野球団は、連携プレー、ベースランニングなど日本の最先端の野球を韓国にもたらした。
58年には張本勲も野球団の一員として訪韓している。この時、ソウルの京東高校の1年生ながら、強肩強打の捕手として頭角を現していた白仁天とも対戦している。
「ハリさんは、スケールが大きくて、格好よかったです。それに在日僑胞自体、何か垢抜けていて、憧れました」と振り返る白が、解放後初めて玄界灘を越え日本のプロ野球に入り、当時東映の張本とチームメートとなるのは、それから4年後のことである。
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48年・52年五輪参加も在日あってこそ
建国期の奮闘支え…泰陵選手村建設にも寄与
48年のロンドン五輪に参加の途中、日本に立ち寄った韓国選手団
ロンドン五輪選手団大歓迎
野球に限らず在日は、韓国のスポーツの発展になくてはならない存在であった。韓国が夏季オリンピックに参加したのは、48年のロンドン五輪からである。この時、韓国選手団は、日本経由でロンドンに向かった。選手団を乗せた船が博多に到着し、汽車で横浜に行くまでの各所では、祖国からの選手団を初めて迎える在日同胞が熱烈に歓迎し、キムチなどを差し入れした。
さらに動乱のさなかに開催された52年のヘルシンキ五輪は、在日なしには参加自体が不可能であった。この大会に備え、在日韓国人ヘルシンキオリンピック後援会を組織し、選手団のユニホーム、レインコート、ボストンバッグ、さらには競技に必要な道具まで揃えた。
事務方の責任者として支援活動に奔走したのが、在日のスポーツ界のリーダーであった蔡洙仁である。朝鮮建国促進青年同盟の体育部長であった蔡は、韓国および在日のスポーツの発展にその生涯を捧げた。
66年以降、韓国はナショナルトレーニングセンターである泰陵選手村建設など、インフラを整備し、スポーツを強化した。そこでも、鄭建永ら在日の実業家が資金援助をし、蔡洙仁らが道具の調達や、日本のコーチの仲介など、中身の充実に寄与した。
在日の柔道家3人が大活躍
76年のモントリオール五輪柔道で銅メダルを獲得した在日の朴英哲選手(左)
選手としても、東京五輪で金義泰が、モントリオール五輪で朴英哲が銅メダルを、ミュンヘン五輪で呉勝立が銀メダルを獲得するといったように、3人の在日の柔道家がメダリストになった。
中でも、呉勝立は韓国建国後初の金メダルの可能性が高かった。
天理大学出身の呉は、中央大学出身の関根忍と学生時代からのライバルであった。そして呉は準々決勝で関根を破り、決勝に進んだ。相手は何と敗者復活戦を勝ち上がった関根であった。決勝では微妙な判定の末、関根が勝ち、優勝している。
これ以後、敗者復活戦の勝者は3位決定戦までしか進めなくなった。それだけに、非常に惜しい銀メダルであり、もし呉が建国後初の金メダルを獲得していれば、在日のスポーツ選手に対する本国の人の意識は、違ったかもしれない。
というのも、80年代以降、韓国のスポーツが急成長を遂げ、スポーツ界の世代交代が進むと、在日の貢献は次第に忘れられていったからだ。
しかも、優秀選手に対するスポーツ特待生、メダリストに対する兵役免除といった制度が整い、学閥など派閥主義が横行するようになると、制度の枠外にいる在日は、歓迎されない面も出てきた。
在日3世の柔道家の父親と韓国人の水泳選手であった母親の間に生まれた秋成勲は、近畿大学を卒業した後、五輪出場を目ざし、釜山市庁の柔道チームに加わった。
秋は、実力はありながらも、五輪やアジア大会のかかった重要な試合は、常に不可解な判定で敗れた。そして2001年、日本に帰化し、02年の釜山アジア大会は、日本代表として出場した。
日本人・秋山成勲に対し、祖国は「裏切り者」扱いをし、釜山アジア大会の試合会場はブーイングに包まれた。それでも、苦労を共にしてきた釜山市庁の仲間は、秋山を必死に応援し、秋山は韓国の安東珍を破り柔道81㌔級で優勝した。
総合格闘家に転身した秋山は、今日、韓国で大人気になっている。
スポーツがナショナリズムを煽っているのは確かだし、国家対抗戦の緊張感は、スポーツの面白さを高めているのも事実だ。しかし、スポーツを支える人たちに国境はない。日本と韓国の狭間に揺れる在日選手であればこそ、韓日の枠組みを超えた活躍を期待したい。
(2008.8.15 民団新聞)