在日同胞の多くはきょうの建国60周年を特別な感慨をもって迎えたことだろう。私たちは、異郷にあっても、祖国の平和と発展を祈り、様々な形で貢献してきた祖父母や両親の後ろ姿を間近に見て育ったからだ。そうした在日同胞たちから「祖国と在日、そして私の60年」について聞いた。それぞれが特色のある半生を送ってきている。共通しているのは、見えない祖国との絆を大切にしながら在日を生きてきたことだろう。
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サハリンと韓国結ぶ
樺太帰還在日韓国人会 李羲八氏
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李羲八さん(85)=樺太帰還在日韓国人会会長、東京=は1943年、韓国で人造石油会社の「募集」に応じ、2年間の約束でサハリンに渡った。期限が来ても現地で再徴用され、引き揚げ実現までには実に16年の歳月を要した。
真岡(ホルムスク)から出迎えの日本船に乗り込むとき、見送りに来たサハリン残留同胞が泣きながら叫んだ。「日本に行けば、韓国は近いから帰ろうと思えばすぐに帰れるし、いろいろ消息も聞くことができる。君たちがうらやましいよ」。
李さんは「私は妻が日本人だったから引き揚げることができた。でも、残った4万3000人から希望を託されたからには、その人たちのことをほったらかしにすることはできなかった」という。
李さんは日本での生活が落ち着く間もなく、朴魯学さんらと数人で「樺太抑留帰還者同盟」を立ち上げた。韓日両国政府への嘆願、国会議員への陳情、さらにはサハリン同胞との手紙による情報交換に日々を費やした。 当時は日雇いで得る収入が250〜300円の時代。毎日30通を超えるサハリン同胞からの手紙に返事を書くのは、切手代だけでも金銭的に大きな負担となった。夫人とは不足しがちな生活費の問題でいさかいになることも多かった。
こうした努力の末、1744世帯6924人にのぼるサハリン残留同胞名簿が完成した。この名簿は運動の基礎資料となった。間もなく日本人の識者や弁護士らの支援も加わり、超党派の議員懇談会が発足した。それからは朴さんらの運動は大きく前進していった。80年代には会などの努力が実り、サハリン同胞の韓国への一時帰国が実現した。
李さんは70年代、「なぜ同胞を救出しないのか」と韓国政府を批判したこともあるが、いまになっては「本国には何千万もの同胞がいる。サハリンのことを思う余裕がなかったのは事実かなと思う。無視されたのはやむをえなかったのではと思うようになった」。
運動は今年で50年目。いまはサハリン郵便貯金の補償請求裁判に全力を傾けている。
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後輩育成に情熱と奉仕
東京韓国学校前教頭 洪性豪氏
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洪性豪さん(69)=東京=は東京韓国学校の開校50周年を前にした03年、韓国在住の卒業生一同から唯一、「感謝牌」を贈られた。文面には「誰よりも学校と同胞教育に対する強い愛情をもって、後輩を育成」したことへの感謝の念がつづられていた。
洪さんは同校の第1期卒業生。教科担当の数学と物理では生徒たちの学力を伸ばそうと、夏休みにも手弁当で学校に出て補習を課した。生徒に自信をつけさせようと、各種の検定試験受験も奨励した。教え子の中には韓国で大学教授や弁護士、医師、裁判官などになった例も多い。感謝牌にも刻まれた洪さんの「情熱と奉仕」が、生徒のやる気と自信を引き出したといえよう。
洪さんは東工大での原子核研究の時代、毎日、大学で寝泊まりし、故障のために誰も手をつけなかった原子核実験機器を修理して担当教授を驚かせた。その機器による原子核低エネルギー実験結果が評価され、理学博士号を受けた。「やればできる」というのは、洪さんの実体験から生み出された確信だった。
68年、東工大から将来を嘱望されながら、あえて母校での教職の道を選んだ。97年から教頭。02年に定年退職するまで母校の発展に尽くした。慶応大学などへの推薦入学に道を開いたことや、「土曜学校」の開設にあたっては昼夜、生徒募集に努力し、軌道に乗せたのも忘れられない思い出だ。教職員生活35年で送り出した教え子は、一時滞在子弟だけでも2000人をくだらないという。
退任後も6年間、理事として母校に残り、在日永住同胞生徒の募集に尽くした。理事退任後も、昨年からは、自ら説得して入学させた子どもたちを自宅に呼び、週3回、ボランティアで数学を教えている。父母からは「成績が上がっている」と感謝の声が届いている。洪さんは「子どもが少しでも成長するのが好きなんですよ」と笑った。
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伝統文化で1世癒す
韓国伝統舞踊家 金順子氏
金順子さん(63)=金順子韓国伝統芸術研究院代表、西東京=が初めて人前で踊ったのは20代。地元民団の敬老会で披露したサルプリ舞だった。
自ら手作りした白いチマ・チョゴリをつけ、白く長いスゴンを持って踊った。大勢のハラボジとハルモニが、金さんの踊りをくいいるように見つめていた。だが、その視線は、踊りの向こうにある懐かしい故郷に注がれているのを感じ、切ない思いを抱いたという。
このことがいつまでも忘れられず、金さんはその後、好んで日本の老人ホームをボランティアで慰問している。「日本の老人ホームには必ず1人は同胞がいる」と信じているからだ。
いまでも忘れられないのは、埼玉県朝霞市内のある老人ホームを訪ねたときの出来事だった。
金さんが着替え部屋として通されたのは、冷たく、重い空気が立ちこめる「霊安室」だった。案内の看護師が「お一人入っていましたが、先ほど出ましたのでどうぞ」と告げた。金さんは1時間近く踊り、チャンゴで韓国の民謡も歌った。ホームからは水一杯出たわけでもないが、「また、なにか一つ成し遂げた」という満足感でいっぱいだった。
3カ月後、今度は同ホームの園長からぜひにと請われた。聞けば、韓国籍のお婆ちゃんが毎日のように園長の部屋を訪ね、「金さんに会いたい。金さんを呼んでください」と頼んだのだという。金さんはまっさきにそのハルモニを探し出し、韓国語で話しかけた。ハルモニはぼろぼろと涙をこぼし、「会いたかった」と何度も繰り返した。
伝統文化との運命的な出会いは18歳のとき。韓国に短期留学していた姉が、家族を前に披露してくれたチャンゴやカヤグム、踊りを目の当たりにしてからだった。「体中の血が逆流したかのようなショックを受けた」という金さん。それからは手の振り、足の運びの一つひとつについて独学を重ね、韓国でも著名な指導者について修業した。
金さんは約50年間の舞踊修行を振り返り、「裸足で砂利道を行くような苦難を味わってきた」と話す。その苦難の道程は在日1世の歩みとも重なる。これから9月にかけて日本の地で辛苦の末、亡くなった1世に思いを馳せながら、各地の慰霊祭を回る。御霊に捧げるのはサルプリ舞だ。
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6・25韓国戦争に志願
在日学徒義勇軍同志会 柳再萬氏
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柳再萬さん(77)=在日学徒義勇軍同志会副会長、東京=は6・25韓国戦争の勃発を、ラジオ放送で偶然知った。この日は日曜日で東京の大田区から川崎市に遊びに来ていた。当時、19歳。新聞紙上を通じて志願兵募集を知るや、真っ先に応募した。柳さんは「負けたらおしまい。自分の国がなくなれば、みじめなもの。生きていてもしょうがない」という気持ちだったと振り返った。
柳さんは解放前、2、3歳のころに両親の手に引かれて渡日した。15歳になると両親と別れ、民間企業の一員として中国東北部に渡り、飛行機の部品づくりに従事。日本が敗戦するや、八路軍の横暴は民間人にも向けられた。拷問同様の仕打ちを見て、「共産軍はなんかやっていることが違う」と不信感を持つようになったという。両親と家族は空襲に焼け出されて帰国していたことも柳さんの志願を後押しした。
北韓が韓国戦争を仕掛けたことを知らない中高校生が韓国で50%を超えたといわれることには、「若い者を信じている。いざとなれば、誰でも立ち上がるさ」と笑顔を見せた。病後で体は不自由だが、祖国を思う気持ちだけは19歳のころと少しも変わっていない。
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北軍に拉致、今も憤り
「青丘野歩山会」代表 許南明氏
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許南明さん(77)=神奈川=は6月になると6・25韓国戦争に関する内外の書物をひもとき、あらためて九死に一生を得た幸運をかみしめている。「あの状況でよくぞ生き残ったものだ」と。戦死者の冥福を祈りつつ、無謀な南侵に踏み切った金日成への怒りをたぎらせ続けてきた。
川崎生まれの在日2世。ソウル大学教育学部2年在学中の1950年、ソウルを占拠していた北韓軍の「若者狩り」にあい、南朝鮮学徒義勇軍に強制入隊させられた。そのまま南下した晋州では朝鮮人民軍への編入を余儀なくされ、自らの意志に反して釜山包囲戦にあたる北韓軍に加わった。ただ、後方の補充部隊に配属されたことが幸いした。
「北韓軍に武器や弾薬を補給する役割だったからこそ、生き延びることができた。南の言葉を使うからと、上官からも重宝がられた。でも、後方にいても肉片が飛び散ってきた」
釜山から始まった国連軍の反撃を受けて許さんが加わった部隊は北上した。夜間、許さんは隙を見て部隊を脱出し、米軍に発見された。ライトにこうこうと照らされた許さんは銃を捨て、とっさに「ノー・シューテイング」「ノー・ファイヤ」と叫んだ。「英語を使わなかったら間違いなく撃たれていただろう」と、許さんは述懐する。
巨済島の捕虜収容所に送られた許さんは、ソウル大の大学生から韓国軍中尉に任官していた兄の必死の捜索が実り、生まれ育った日本に戻ることができた。許さんは「もし韓国戦争がなかったなら、そのまま韓国に留まり、政府高官になれたかもしれない。私の人生は北によって狂わされたのだ」と話す。
許さんは抑えきれない憤りを金正日国防委員長に向け語気を強めた。
「金正日が民族的立場に立つならば、父親の引き起こした無謀な戦争を反省し、南北の和解のために自ら努力するべきだ」。
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母国投資続けて30年
近畿慶南道民会 具教成氏
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具教成さん(62)=近畿慶南道民会副会長、奈良=は自動車部品を扱う会社を経営。外貨不足の79年に韓国政府や自動車メーカーの要請を受け、郷里の慶尚南道に造成された当時としては東洋一の工業団地に進出した。
「自動車はIT関連と同じ花形産業。この30年間、祖国で事業を続けてきただけに、建国60周年を迎えたことには感慨深いものがある」と当時を振り返った。海外にある自動車工場は現在、韓国に3つ、米国に3つ、中国に3つ、タイに1つの計10社を数える。
祖国とのつながりは高校生の時、団体で韓国を訪問したときから。「これが自分のルーツの地なんだなと、漠然と思いながらも、なにかしら心に響くものがあったのはやはり血なんだろうなと思った」。10数年前からは郷土での植樹式にも毎年参加している。
具さんは「自分が在日だという立場にいまはなんら抵抗感がない」と話す。「息子や娘が、自分自身韓国人であることに誇りをもっていることがなによりうれしい」と目を細めた。
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分断祖国に心痛む
兵庫・金輝子さん(67)
大韓民国ができて60年。しかし、祖国は南北に分断され、いまだに統一できていません。私にとってこの60年は、統一祖国の実現を願い続けた60年でもありました。あまりに長い年月が経過し、いまだに建国の喜びにひたるという気持にはなれません。
韓国は大好き。だから「望郷の丘」に墓地を買いました。店の玄関には太極旗を掲げています。生まれは京都ですが、韓国も私の故郷です。大韓民国という国の支えがあったからこそ店の経営を続けてこられました。
これからも韓国に行って勉強を重ねながら、伝統料理のすばらしさを伝えていきたい。
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韓国の発展を喜ぶ
兵庫・金勇さん(67)
母国訪問団の一員として初めて祖国に足を踏み入れたのは朝鮮籍だった35年前。「ありのままの韓国をみてほしい」という政府の姿勢に感動し、帰国後は即座に民団へ切り替えました。
今年の4月には故郷・慶尚南道の植樹祭にも参加し、祖国への思いを新たにしました。
建国60周年の韓国については、豊かになってきていること、発展していくことはすばらしく、感無量の思いです。
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韓国人の誇り新た
三重・李日伊さん(75)
貧しかった祖国が建国60年を迎えたことに感無量の思いです。韓国人であることの誇りがしみじみとこみ上げてきています。
私は息子ばかりか孫、甥や姪まで韓国に留学させてきました。自分が何者なのか、自分のルーツはどこにあるのかを子孫に残し、誇れる民族であることを学ばせることこそが、私たちの務めだと思います。
韓国の若者たちのデモを見るにつけ、祖国がこれからどうなっていくのか、不安でなりません。市民が選んだ大統領ですから、もっと応援していかなければならないと思います。
(2008.8.15 民団新聞)