民団は建国60周年を迎える韓国と常に連帯しながら、国力発展に寄与してきた。政府から唯一公認された在外国民団体として、韓国の支持基盤拡張や威信高揚、経済発展へのテコ入れ、天災などで被害に見舞われた被災者支援、スポーツ大会への物心両面にわたるサポートなど、貢献は多岐にわたる。建国60周年を支えてきたこれまでの主な貢献を振り返る。
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韓国籍獲得進め基盤拡大
政府唯一の公認団体
48年8月15日に大韓民国政府が樹立されたことにより、在日同胞社会に一大転機が訪れた。外国人登録上の「朝鮮」籍をそのまま維持するか、それとも韓国籍に変更するかという選択を迫られたのである。
民団はすでに7月21日に「国民登録事業を準備するよう」地方本部に指示すると同時に、中央本部に「国民登録委員会」を設置して万全の準備を整えた。そして50年2月11日に公布された「在外国民登録令」を期して、積極的に韓国籍獲得運動にのり出した。
一方、日本との早期国交正常化と、在日同胞の永住権確立を柱とした法的地位確保が、韓日会談に臨む民団の基本的な立場であった。
協定発効にともない、66年1月17日から「永住権申請運動」を始めた。「申請すると韓国の徴兵制に組み込まれる」という総連の組織的妨害があったものの、文書・芸能宣伝・遊説班に分かれ、全国的な促進啓蒙運動を展開し、有資格者56万人中、36万5000人が申請するという成果をあげた。
また、韓国政府とともに75年から始めた総連系同胞を対象にした省墓団事業は、「朝鮮籍」から韓国籍に切り替える大きな契機となった。
平和統一問題については、77年に民団内部に平和統一促進本部を設置し、韓国の平和統一外交と民族和合統一方案を支持し、大統領の諮問機関である平和統一諮問会議日本地域協議会の活動と連動させた。
さらに、87年11月には民団が主導して「海外韓民族代表者協議会」を立ち上げ、700万海外同胞が紐帯を深めながら韓国に貢献する契機をつくった。
政府から唯一公認された団体として、民団は韓国の支持基盤を在日社会に拡大するのに大きな役割を果たした。
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本国に投資 輸出を活性化
経済再建へ先頭に立つ
62年2月、韓国の経済発展に寄与することを目的の一つに掲げ、在日韓国人商工会連合会(韓商連の母体)が結成された。韓日経済交流の懸け橋の役割を果たそうと、63年には第1次技術訓練生32人を在日同胞企業に招請し、本国投資の環境整備に着手した。
韓商連の意向を受けた韓国政府は同年秋、在日同胞企業の誘致を方針に掲げ、ソウル九老工業団地造成を決めた。66年7月に第1陣として14企業が入居した。
韓日協定が結ばれて以降、韓国に進出した在日同胞企業人は、繊維・機械・電子・電気・金属などの製造分野をはじめ、ホテル・観光などのサービス業まで事業拡大することで、輸出促進など経済発展に大きく寄与した。「漢江の奇跡」をサポートしたのである。
在日同胞の本国投資誘致と韓国経済の発展に寄与しようと、74年に設立されたのが、在日韓国人本国投資協会である。最盛期には200社が進出した。
同協会が中心になって設立した第一投資金融は82年、在日同胞を主体に国内初の民間資本による新韓銀行を誕生させる起爆剤になった。
新韓銀行は、国内の金融産業の発展を先導し、今や新韓持株会社などを牽引する模範企業になった点は特筆すべきだ。民団、韓商連、韓信協が一致団結した好例である。
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各民団が150村と姉妹結縁
郷土の近代化セマウル支援
70年4月に朴正煕大統領が提唱した農村の近代化を図るセマウル(新しい村)運動は、勤勉・自助・協同を基本精神に、71年から全国規模に拡大した。
民団は日本の植民地支配と韓国戦争によって荒廃した韓国の再建・発展に尽くそうと同運動の支援を決め、73年に「60万人のセマウムシムキ(新しい心の植林)運動」で呼応した。
全組織をあげて集めた4億2000万ウォンのセマウル支援金を、各道から選定されたセマウル集落を訪ねて直接伝達した。在日2・3世で構成された東京本部の青年奉仕団は、山肌あらわな山々に苗木を植樹したり、集落で労働ボランティアを買って出た。150カ所の郷土集落との間で姉妹結縁の橋渡しをした民団の存在は、韓国の各界各層に広く浸透することになった。
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学徒義勇軍を結成し参戦
存亡の危機 国を救おう
50年6月25日、北韓の南侵によって同族相食む韓国戦争が引き起こされた。存亡の危機に瀕した祖国を救おうと、642人の在日学生、青年らが自主的に「在日学徒義勇軍」を結成し、戦場へと向かった。
救国のために率先垂範し、戦死者、行方不明者135人を出すなどした愛国精神に対し、政府は79年10月、仁川の寿鳳公園に記念碑を建立した。在日学徒義勇軍同志会は、毎年現地で慰霊行事を執り行っている。
民団は戦争勃発3年後の53年6月、韓国政府に連動して1200万余の戦災同胞の窮状を訴え、中央本部に届けられた衣服や子どもの学用品などを被災地に届ける救援活動に汗を流した。
一方、59年8月に日本と北韓との間で締結された「在日朝鮮人の帰還に関する協定」にともなう「北送事業」に対して、民団は「北韓の労働力不足を補う策動」と反対、断食闘争や輸送列車を実力で阻止しようとするなど、強力な運動を全組織をあげて展開した。
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惨事のたび組織募金展開
被災者への支援活動
韓国を襲った天災や人災などの惨事に対して、民団は「対岸の火事」とは受け止めず、組織的な募金活動を通じて被災者を支援してきた。
大々的な支援活動の始まりは62年8月、全南順天の水害被災で、総額521万円の支援を行った。65年7月、40年ぶりに全国各地を襲った集中豪雨は、被災者33万人という桁外れのもので、930万円を伝達した。
このほか、02年、03年夏の台風被害、03年2月の大邱の地下鉄の火災惨事など、被災のたびに被災者支援を続けてきた。
最近の例では、今年2月焼失した南大門復元のために、1次募金として約5億6400万ウォンを集めた。
義援金支援は韓国国内に限らず、92年のロス暴動で被害に見舞われた在米同胞社会や、04年の北韓龍川駅の列車爆発事故被災支援にも及んだ。
97年に起きた金融危機で本国は、国際通貨基金(IMF)から総額550億㌦の緊急支援を受ける事態になった。民団は同胞1世帯につき10万円以上の外貨送金運動を始め、100億円の目標をはるかに超える約900億円を集めて本国に送金した。
また、研修会などを韓国で開催することで外貨を落とすという形の支援も積極的に行うなど、金融危機克服に大いに貢献した。
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五輪とW杯 成功へ後援会
国際イベント陰の原動力
64年に開かれた東京五輪では、在日韓国人後援会を結成し、約2カ月間、韓国選手団の受け入れや韓国からの参観者招請、競技応援や募金など、「五輪一色」と言っても過言ではないほど後援活動に集中した。
民団の団結した組織力量を誇示することで、五輪を政治利用しようとする北韓と総連の妨害策動に強い警戒心を促すためであった。アジア初の五輪成功にかける後援会の行動力は高い評価を受け、大会成功に寄与しただけでなく、その後の民団の後援事業のモデルとなり、各種スポーツ大会に受け継がれた。
アジアで2番目の開催となる88年のソウル五輪では、「後援会」が100億円にものぼる募金を集め、大会成功の原動力となった。後援活動の功績を称える記念碑が、オリンピック公園内に建立され、在日と本国の絆の深さを示している。
韓日両国が共催した02年のサッカーW杯では、集められた1億円超の募金を両国組織委員会に伝達したほか、史上初めて総連同胞との「共同参観団」を構成し、民族和合と統一への大きな契機を作り出した。
このほか札幌、長野の冬季五輪、広島アジア大会など、国際スポーツ大会のたびに「後援会」を構成し、韓国の威信を世界に示す一翼を担ってきた。
(2008.8.15 民団新聞)