掲載日 : [2009-01-01] 照会数 : 6216
出でよ!21世紀の金春秋
東アジアに待たれる英雄の再来
大陸・列島を股にかけ
半島統一の礎を築く
金春秋‐古代の東アジアを縦横に飛び回ったスケールの大きい政治家である。彼が目指したのは「新羅‐唐‐日本」の東アジア連合だった。昨年12月、福岡県で独立型では初の韓日中首脳会談が開かれたが、金春秋の構想に比べればまだまだ小さな出発点にすぎない。世界の中で東アジアの重要性が増すであろう今、新たな金春秋という「巨人」の出現を期待したい。
今から1400年前の西暦7世紀。東アジアは、21世紀の現在と不思議にも符号するような地政力学の、大動乱の時期であった。大陸では高句麗への出兵が失敗したことが大きな原因で隋が滅び、代わって唐がたつ。倭国(日本)では蘇我氏の権勢に反対する勢力が「大化の改新」と呼ぶクーデターを起こす。そして韓半島は数百年にわたって高句麗、百済、新羅が存亡をかけて戦っている3国時代。
一国が攻めれば他の二国が手を結び対抗するという、権謀術数を駆使した熾烈な状況であった。
新羅の第27代善徳王、第28代真徳王の女王2代に仕え、後に第29代武烈王となる金春秋。半島3国の中で最も弱小であった新羅の政治家として、高句麗、百済からの軍事的圧力をなんとかしのいでいたが、ついにその緊張のバランスが崩れるときがきた。
642年、百済の義慈王は大軍を動員し、新羅各地に大攻勢をかけた。まず新羅西部の百済との国境近くの40余城を攻略。さらに百済は高句麗と手を結び、新羅の黄海への出口となっていた党項城を攻め落とし、新羅の唐との連絡の道を断つ封じ込め作戦に出た。
同時に百済の将軍・允忠は新羅の重要拠点、大耶城も陥落させた。このとき城主・金品釈が戦死。ここに新羅は絶体絶命の危機に陥った。この大耶城の攻防のさなか、金品釈に嫁いでいた金春秋の娘も戦死した。金春秋は娘の死の報せを聞くと、一日中柱に寄り掛かったまま、まばたきもせず、人が目前を通りかかってもまったく気がつかないほど衝撃を受けた様子だったという。
和平を求めて単身高句麗へ
危機打開のため、金春秋は自ら出兵要請に赴くことを決断。善徳王に申し出を許された春秋は、大胆にも単身、高句麗の首都・平壌に乗り込んだ。新羅と高句麗は何度も戦火を交えていた相手、いわば敵地への捨て身の決死行である。
金春秋の高名は高句麗にも伝わっており、宝蔵王は大臣・淵蓋蘇文とともに、兵を並べて居丈高に金春秋と会った。兵馬の支援を願い出る金春秋。宝蔵王は、条件として新羅が占領している竹嶺地域はもと高句麗の領土であると返還を要求した。すると金春秋は「私は君命によって援軍を依頼しにきました。大王が善隣友好の意志がなく、武威をもって使者をおびやかし、土地を奪おうとなさるなら、私には死があるのみ」と拒否した。
宝蔵王は「不遜である」と怒り、春秋は捕われ幽閉された。その報せが密かに新羅に伝わり、無二の同志・金 信将軍は一万の決死軍を率いて金春秋の救出に向かった。この動きに恐れをなした高句麗は金春秋を釈放し彼は九死に一生、無事に慶州に帰還したのだった。
同盟を画策し倭国に渡る
倭国は蘇我氏の権勢が隆盛を極めた時期からずっと、親百済の政策をとっていた。金春秋は、新羅の背後の備えを万全にするために、倭国の方針を親新羅に転換させにかかった。「新羅‐唐‐日本」枢軸形成の大構想である。倭国の「国博士」高向玄理、遣隋使からそのまま滞唐していた僧旻、南淵請安らは帰国前に新羅に滞在している。
彼らは東アジアのパワーバランスと行く末を見据えて、唐‐新羅と結び、蘇我氏打倒のクーデター「大化の改新」のブレーンとして活躍。倭国の政策を親新羅に転換させた。「大化の改新」が成功して2年後、金春秋は来日した。
「日本書記」(大化三年647年の条)には「春秋は姿顔美(よ)くして善(この)みて談笑す」と記録されている。誇らかに、余裕しゃくしゃくで倭国の人々と語り合う様子が浮かぶ。倭国の親新羅政策はその後10年間続いたが、中大兄らの親百済派が勢力を盛り返し、金春秋の構想は一時やぶれたかに見えた。
太宗と交流し新羅−唐同盟
しばらく倭国に滞在していた金春秋は新羅に帰国し、その後、唐の都・長安へ向かった。「新羅‐唐」提携樹立のためである。648年、金春秋はその子・文王を伴って、唐の太宗と会見した。太宗は春秋の秀でた容姿にうたれて手厚くもてなしたと唐の記録に残っている。
太宗は春秋をよほど気に入り自作の銘文や歴史書、黄金や絹布などを贈り、人材育成の大学も見学させた。太宗が「あなたは何か思うところがあるのではありませんか」と尋ねたとき、金春秋は新羅への援兵を要請した。太宗は約束し、「新羅‐唐」同盟が成立した。金春秋は新羅の礼服や暦を中国の制度に改め、自分の子供たちを太宗のそばに置かせてほしいと願い認められるなど、新羅の危機を救うため離れ業ともいえる思い切った手を打っている。実をとる冷静な政略家として面目躍如たるところだろう。
ついに古代東アジアの情勢は、金春秋の超人的な行動力、新羅‐唐同盟、百済‐日本同盟、北方の高句麗という三つ巴の様相となった。
武烈王に即位 統一へばく進
654年、新羅の真徳王が亡くなり、金春秋は第29代武烈王として即位した。金春秋は3代前の真智王の息子・金龍春(元花郎=ファラン)の子であり、王族(真骨)の一人として周りから推されて即位したが、この動乱期に新羅を担って立つ王は金春秋以外に考えられなかっただろう。
武烈王・金春秋は将軍・金 信とコンビを組んで半島統一に驀進した。新羅はその後、半島支配を目論む唐とも戦い、勢力を駆逐。ついに韓半島初の統一王朝は樹立された。百済、高句麗の人々とその優れた文化遺産を受け入れ引きつぎ、東アジアに燦然と輝く高度な文化と平和な時代へと昇華させた。また民族としても初めてひとつになった意義は大きい。
古代は武の時代であったが、21世紀は平和と人権の「生命の世紀」である。リーダーの要件は、智恵と慈愛と対話力だろう。これからの国際舞台において、中国‐韓国‐日本という東アジアの枢軸が大きな比重を占めることは確実。この地域を、わが身を顧みず大きな構想力と行動力で、平和に導く21世紀の金春秋の登場を期待したい。
(2009.1.1 民団新聞)