掲載日 : [2009-01-01] 照会数 : 6485
私の念賀状
読者の皆さんへ
「民団新聞」の愛読者の皆さんに、この場をかりて新年のごあいさつを申し上げます。
さて、本紙が昨年11月26日付で「私の年賀状」を募集したところ、多くの応募をいただきました。それぞれに思いのこもった念賀状でしたが、残念ながら紙面の都合上、掲載を見送らざるを得なかった方が少なくありませんでした。ご容赦のほどお願いします。
本紙は読者皆さまのご指導ご支援に支えられながら、緊縮財政にともなう経費節減の要求に応えつつ、民団を中心とした在日同胞社会の機関紙、オピニオン紙として今後も邁進する決意です。読者皆様にとって、今年が幸多き1年になりますよう祈念いたします。
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宇宙船地球号に
果てしなく広がる宇宙空間の一角に、白雲をまとって青く輝く地球は、67億の乗員を乗せて、太陽を回る宇宙船である。その乗員の一員である皆様に、私は熱烈な新年のあいさつを送ります。
山を越え谷を越え、遠くに続く一本の道、人生という長い長い山道−−。 同じ世代に生を受け、めぐり合った人生なれば、明日に向かって歩む皆様がいつ迄も若く、美しく健康で、笑顔の人生であることを祈ります。
盧在植(81)・兵庫登山会リーダー
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北に行ったみっちゃん
あの長屋の跡に今はテナントビルが建っています。でも、ゴム跳びをして遊んだ公園は当時の面影を残しています。
一緒に通った小学校は廃校になりました。幼友達はちりぢりになってもう誰もいません。
即席ラーメンにキムチを入れ、分け合って食べた味を今も思い出します。
二人だけで撮った写真がまだあります。あなたはかわいいおかっぱ頭で、はにかんでいます。
イムジンガンの歌を聴くと涙が出ます。別れの日の、12月のあの寒い日を思い出します。
賢いみっちゃんのことだから、生き抜いていると思います。必ず再会できると信じています。
飯沼正美・東京都
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悪ガキ仲間の勇次君へ
「朝鮮人のクセに」「ナニ! もう一度言ってみろ」。近所の鼻つまみ者どうしで、いつもつるんで悪さをしていた二人が、ひょんなことでけんか別れ。しばらくして、君たち家族は引っ越していき、君が中学を卒業して働きに出たと聞いたのが風の便りの最後でした。
君たちが「満州帰り」とは知っていましたが、どのような苦労があったのかも、貧しい我が家よりさらに貧しかったことも当時は知りませんでした。満州で、あるいは帰国する途上で、多くの朝鮮人とも関わったのでしょうか。同じ時代を生きたものどうし、語り合い、仲直りしたいものです。
金勝男(63)・埼玉県
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故国の川風に
亡き父の故郷、慶南・昌寧を訪れ、墓に詣でました。帰路ソウルに立ち寄り、漢江の河畔のベンチに腰を下ろしました。独り旅でした。
墓参を終えたばかりなのに、なぜか、父のことが思い出されてしかたありませんでした。
父の故国を吹き渡る風が、親不孝な私の過去を運んできたに違いありません。頭を垂れるとうなじを川風がなでていきました。
河哲(62)・宮城県
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飲み友ヨロブン
俺んちはどぶろく密造だから造り酒屋で、お前んちはヒロポンだから製薬会社で、そっちはブタ飼いだから畜産会社で、闇タバコのあいつんとこは専売公社で、みんなたいしたお坊ちゃんだったんだと、笑い飛ばしては子どもの頃の貧乏自慢をし、メタボ腹をゆすっては糖尿病だ、痛風だとあれこれ数値をあげて病気自慢をしながら、何かと理屈をつけちゃあ酒を食らい、時に民団改革、民族統一論を戦わす。
本音をさらけ出して人生を、在日を語り合う皆さんの姿が私には神々しく、いっそのこと人間文化財として在日韓人歴史資料館に〈収容〉したい。
そんな皆さんでわが支部はもっている。
団塊世代の支部役員
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反戦貫いた住職様
先日、岐阜を訪問した機会に、一度訪ねたかった明泉寺まで足を延ばした。穏やかな田園にたたずむ明泉寺の元住職竹中彰元師は、日本が軍国主義を患っていた1937年、戦争に反対し、特高警察に囚われ、戦争に協力する教団からも冷遇を受けた。古びた寺の門の傍らに、竹中師が残した「戦争は罪悪である」の碑文が立つ。未曾有の経済不況と不正がはびこり、ナショナリズムが容易に語られる。戦前もそうであったそうな。
近くの集落で枝をしならす熟柿をいただいた。平和な静寂の甘さが口いっぱいに広がった。平和をお祈りします。
金光敏・大阪府
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天界のアボジへ
学生時代に私が警察沙汰になって周囲から白眼視された時、「わしは息子を信じる」と毅然としていたそうですね。友人からそう聞いて嬉しく思っても、飲んだくれの土方オヤジが疎ましく、とうとう感謝の言葉一つかけませんでした。
チェサの度にオモニや兄弟たちと、アボジのどこか家族思いで、照れ屋で、精一杯生きた姿を思い出しています。30数人に増えた直系一族の絆を、これからも大切にします。
私は今年、アボジの享年と同じ62歳になります。
李基大・東京都
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2世3世同胞へ
現在の私達が韓国人として、国家を持ち、生きていられるのも、度重なる他国による攻撃にも耐え、素晴らしい朝鮮半島を護ってくれた高句麗の誇り高き先祖のおかげです。大河ドラマ「淵蓋蘇文」は、在日同胞、とりわけ2世・3世にとって、まったく学ぶ機会のなかった韓国の歴史を明快に教えてくれます。
(雄大な志をもち、断固たる勇姿で一歩もひかず戦うヨンゲソムンを誇りに思いつつ、名優キム・ガプスをメインに作成しました)
尹彦詔・京都府
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末期高齢者の皆さん
「旅をすると 活力がよみがえり、本当に生きていることが実感できる」。これはアンデルセンの言葉とか。旅をすることは元気に生きている証だ。
私たち「末期高齢者の終着駅」は 刻一刻と迫っている。誰もこれを止めるすべはない。残念ながら あっさりとあきらめて わが人生の若き時代の様々な思い出を 思い浮かべながら 私たちの心を癒してくれる「旅」でもつづけよう……親しき仲間とともに! あと何年続くかしらねども、体力のつづく限り!
残り少ない人生、身体障害の我が身に鞭打って、むち打って!
秋宗實・愛知県
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文武大王様
昨年の夏、久しぶりに文武大王さまの海中王陵を遠くから眺め拝礼しました。三国を統一され、兵器を農機具に変え、民の倉庫を満たし、牢獄に草が生い茂るという善政をなさいましたことを、今更ながら民の英雄であられたと感じ入っています。
昨今の政治を見ますと、1328年間も東海で休んでいらっしゃる大王さまに再びご登場いただき、民を安穏にお導き下さいとお頼みしたい思いです。現在のやるせなさの中で科学は発展すれども人知は伸びず、を実感しております。どうか今年もせめて、私たちの生命をお守り下さいますよう、お願い申し上げます。
鄭早苗・大阪府
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「在日料理」のママさんに
韓国料理のグレードがいかに高まろうと《中身で勝負》の路線をひた走る、「在日料理」のママさんを僕は支持します。真っ赤なコチュと刻み生にんにくのたっぷり入ったあのテッチャンは最高です。
在日料理を食す行為は、私に言わせれば格闘技なのです。何が垂れても飛び散ってもいいように、服装を整え、汗拭き用のタオルを首に巻き、火気を放つ料理の迫力に負けない気迫で、常に完全制覇に挑むのです。
大阪の在日格闘家
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山本君、今の崔君へ
中学卒業以来一度も会っていない山本君のことがクラス会で話題なった。出版社のY君が仕事で会った崔○○というカメラマンが、山本君にそっくりだった。聞いてみるとやっぱり山本君だった。それからは崔君と呼べず、「山本君」になってしまったとか。僕らは君が在日とは全然知らなかった。
大学から本名を名乗ったんだってね。そう言えば、君の顔はヨン様そっくりで、女の子にけっこうもてたよね。中学時代の君はどんな気持ちだったのかな。今は本名で活躍しているのが答えだね。僕らは君を一度、本名で呼んでみたいんだ。今度のクラス会にはぜひ来いよ。
結城智秀(58)・東京都
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嫌韓派の諸君
いつも韓国のことを気にかけていただいて恐縮です。そのネガティブな研究熱心さには頭が下がります。日本には「嫌い、嫌いは好きのうち」という歌があったかと思いますが、皆さんもそうなんですよね、きっと。これからも韓国の粗探しに励んでください。そうすればするほど、多くの難点や弱点などを抱えながらも大きく発展してきた韓国の、逞しさや魅力に突き当たること間違いなしです。
かつての嫌韓派より
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新羅文武大王への賀詞
今日わたしたちが使っている〈ウリドンポ(わが同胞)〉という単語は、大王が三国を統一して一つの国・統一新羅を樹立したAD668年から始まっております。それぞれ百済・高句麗・新羅の国名で呼んでいた人たちが新羅サラムになり、近現代になって〈ウリドンポ〉と呼び合い、温もりを分かち合いながら苦難を乗り越えてきました。
その温もりが一民族二国家になって冷え続けています。大王の知恵と情熱をもってもとの温もりを取り戻したわたしの初夢が正夢になるよう祈念する初春です。
金両基・静岡県
(2009.1.1 民団新聞)